ほぼ毎日エッセイDay3「心配しているんだね」

何か恐怖症をひとつ持っておくことで、弱点のある未完成な人間であろうとしていた時期があった。弱さを人に見せることで、相手の庇護欲を駆り立てることができると思っていた。


例えばエレベーター。
「きっと閉所恐怖症なんだ」と階数掲示板をじっと見つめ、ぼそりと呟く。眉間に皺を寄せ、深呼吸をし、いかにも苦難に耐えているさまを演じる。簡単に同情を得られると思っている。

だが実際には、相手は大抵何も言わない。何を言うべきか分からないので互いが何も言わない状態が、6階のフロアにたどり着くまで続く。空調の音が響く。
不思議なもので、演じているうち、段々と本当にエレベーターが苦手になった。息が詰まる鉄の棺桶にしか思えなくなった。

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我々は恐怖症の存在を認知できていても、理解し、恐怖を緩和させるだけの言葉を持たない。

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世の中にはおびただしいほどの恐怖が待ち構えていることに気づくことができるだけ、マシなのかもしれない。

自分が醜いことを白日の下に晒されることを恐れると、カメラのレンズはまるで突き付けられた銃口に見えるだろう。
あまりに広大で深淵たる海を目の当たりにしたとき、全身を飲み込まれるほどの悪寒をもしかしたら感じるかもしれない。

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思うに、恐怖という感情は自分と向き合うことでしか結局取り除かれないのだろう。世の中におびただしいほどの恐怖が待ち構えていることは分かっていても、同情の時代は既にトレンドにない。共感の時代もなにやら暴力性を帯びた影を潜めている気がする。

ただ僕は、淡々と目の前のことを理解し対処することでしか、世の中はシステマティックには動いてくれないと思うのだ。だがそこに人間性はあるのか、と聞かれると、「分からない」としか答えられない。

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