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メタ認知が出来ていないのに行き過ぎている話

私の「写真でメシを食っている」話を高橋社長が面白がって、ご一緒する先々で「こいつ写真でメシを食っているんですよ」と紹介してくださる。

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「一度は言ってみたかった」という動機からスタートしているのに、実際に言ってみると凄く身の丈に合わない感じがして、その時になって初めて「自分の発言ってこういう意味を持つのか」に気付く。

そんな「自分の言動や認識を客観的に捉えるのは難しいですよね」という話に関連して、今回は高橋社長から最大級のご指摘「メタ認知し過ぎ」をいただいた。このことについて、自分ではまったく意識できていなかった(=もはやメタ認知できてない)という構造が面白かったので書き記す。

メタ認知っておいしいの?

凄く乱暴に説明すると、幽体離脱して自分の姿を違う視点から観るようなイメージに近い。もうちょい丁寧な説明はWikipediaのメタ認知に譲る。

自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知することである。

おそらくいろんな記事がnoteにもあるので、改めて私が書くことはなさそうだけど、ビジネスシーンでもメタ認知・メタ思考が注目されている。「自分の置かれた状況を客観的に捉えて判断できます!」と言うと、デキるビジネスパーソンっぽい感じがする。

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フィールド調査でも必要な能力で、自分がフィールドに飛び込んで得た抽象的な体験を、客観的に捉えて言葉に落とし込んで明らかにするのに必要となる。いっちょ前にUXリサーチャーと言えるよう「もっとメタ認知が出来るようになりたいなぁ...」とさえ思っていた。

行き過ぎたメタ認知

今回「メタ認知が行き過ぎている」というご指摘を受けた。私がSNS投稿する感想文やら振る舞いやらから、「二重人格なんじゃないの?」「作品観て泣くことある?」ということを言われた。酷い言われ様。言われてみるまで自覚していなかった(この点ではメタ認知できていない)けれど、そのくらいメタ認知が行き過ぎているという評価だった。

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そう言われてみれば、コントローラーを握ってRPGの主人公を操作するように、私は私に対していろんな実験を仕掛けて、自分の感情曲線や上位欲求について分析的に観ることを習慣づけて生きてきた。職業上の訓練というのを割り引いても、言葉にするとかなりサイコな人っぽい。

メタ認知し過ぎによって、自分事からどんどん離れてしまう弊害がある。たとえビジネスシーンでも、最終的に人を動かす原動力は人の情熱だったりするのに、客観的に捉え過ぎた言葉からは情熱が伝わらず、誰の心も動かせなくなってしまう。

純粋経験を取り戻せ

だったらどうすれば良いんだろう。もしメタ認知できているとしたら、自分の強みになりうるので、捨てる必要はないと思いたい。でも、幽体離脱しっぱなしじゃなくて、必要に応じて使えるようになりたい。いや、それをやってるつもりだけど、やれていなかった。

アドバイスとして頂いたのは、「実用書じゃなくて小説を読みなさい」だった。私は小説を読んでも現代文の設問みたく「この時の作者の気持ちを句読点含めて50文字以内で...」から入ってしまう。

その前の段階として、言葉にもなっていないような「うぉーーーーーー!すげーーーー!!!かっけぇ!!!!!!」という純粋経験が先にあり、そのままでは伝わらないから言葉へと落とし込む順序だろう。前段である純粋経験にフォーカスしてみようと思う。

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