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ルールが嫌なら変えればいい

最近はリレーマラソンに向けて練習をしているもんだから、どれだけ寒くても薄着で「屋外の移動は走ればあったかくなるし一石二鳥だ」くらいに思っていた。

でも流石に、先週くらいの積雪になると危なくて走ることもできないし、とにかく寒い。そんな中で「ジャンパー類の使用は禁止する」というブラック校則に縛られる生徒達はかわいそうだなぁと思った。

先生はコートを着ているのに、なんで俺たちはダメなのか。

「先生はコート着てるのに…」 校則で着用を制限するワケ

生徒会長として校則を変えた話

中学生の頃、まったく同じ憤りを感じたことがあったことを思い出した。生徒会長に立候補して「防寒具の使用を認めろ運動」を企てた。

生徒会のお世話をしてくれた先生からは「お前がそれを言うのか?むしろルールを守らせる立場じゃないのか?」と言われた。会長がやらずして誰がやるんだよとは思う。

以前、自由について考えたことがあった。私にとっての自由を言葉にするならば「自分が守るルールは自分で決められること」だろう。原体験として、自分の手で校則を変えた経験は大きかったと思う。

私の入学直前までは丸刈り指定だったくらいなので、当然ながら何でも自由という訳にはいかなかった。折衷案として、それまで無かった学校指定ウインドブレーカーをつくることで着地した。

自由に防寒具を選べない大義名分としては、制服が存在する理由と同じだろう。裕福な家と貧しい家の差が現れてしまうとか、学校にオシャレを持ち込んで歯止めがきかなくなるとか。そのために設けられた制服を防寒具で覆っては、無効化することになる。

おそらく大人達の頭の中には、校則による拘束を緩めれば生徒たちは堕落するようなイメージがあるんだろう。共感はできないけれど、そういう考えの人がいること自体は理解できる。

防寒具のくだりでも、校則を緩める交換条件として「3日間、全校生徒が校則を破らずに過ごせたら」なんて条件が出された。必死にいろんな啓蒙活動をして、校則違反0を成し遂げて、防寒具を勝ち取った。

それから、ウインドブレーカーの選定に入る。交通安全の観点から、めっちゃ目立つ真っ白のウインドブレーカーが採用された。それを言うたら、もともとの制服の機能性どうやねんという疑問は湧く。それでも、防寒具が無いよりはマシ。

地元を歩いていると、出身校の中学生が未だ白ウィンドブレーカーを着ているのを目にする。なんか白く目立ってゴメンと言う気持ちとともに、あれから20年以上も「誰も物申さなかったのか」とは思う。

ルールが嫌なら変えたらいい。

前職で一番感謝された仕事

芋づる式に思い出したこと。以前の職場ではソフトウェアエンジニアをやっていて、一番感謝された仕事もルールの変更だった。

ソフトウェアの開発後には、バグがないことをテストする。テストの手順や合格基準は、あらかじめ決めて「テスト仕様書」として残し、テストを実施した後に「テスト成績書」を残す。

認証の都合で、けっこうルールが厳しく決まっている。キングファイル数冊にわたる「テスト仕様書」を検証して、全ページに日付の入ったデータ印(作成者・検証者)を押印し、それをコピーして「テスト成績書」にGを付けて、すべての項目がテストされたことを検証して、データ印(作成者・検証者)を押印する。

つまるところ、キングファイル数冊分の紙にデータ印を4回も押さなければならない。わたしは「それ本当に必要なのか?」と疑問に持った。

ちゃんと調べると、テスト仕様書を後から都合よく改ざんできないことが目的だった。それを満たせば、例えば紙媒体ではなくDVD-Rに焼き付けてディスクに押印するような方法でも良さそうだった。

業務基準を変えるにも、けっこう偉い人の判子をついてもらう必要が合ったりして一苦労だった。でも、キングファイルの全ページに判子×4だったのが、×2に減ったので同僚達からはメチャクチャ感謝された。

ルールはあくまで手段なので、それによって成し遂げようとする目的まで辿るのは大事。

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