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繊細社畜女子の映画鑑賞記録「道(1954)」

2本目。
 現時点で私が一番好きな邦画は「日日是好日」という黒木華さんと樹木希林さんが出ている映画で。
主人公が「子どもの頃はまるでわからなかったフェリーニの『』に、今の私がとめどなく涙を流すように。」と生きた年月が映画の良さを教えてくれる描写がある。

 古典をあまり見たことがなく、どれからみたらいいかわからなかったので、今の私にフェリーニの「道」が刺さるかどうか気になって見てみた。

旅回りの芸人たちの悲哀を描き、第29回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した古典的名作。貧しい家庭に生まれ育った知的障害の女性ジェルソミーナは力自慢の大道芸人ザンパノに買われ、彼の助手として旅回りに出る。粗暴で女好きなザンパノに嫌気が差したジェルソミーナは彼のもとから逃げ出すが、捕まって連れ戻されてしまう。そんなある日、2人はサーカス団と合流することになり、ジェルソミーナは綱渡りの陽気な青年と親しくなる。青年の言葉に励まされ、ザンパノのもとで生きていくことを決意するジェルソミーナだったが……。

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 108分という今の映画に比べたら長くはない作品だったんだけど、冒頭から結末までずっと、小さな針で心の柔らかいところをチクチク刺されてるような切なさと苦しさがあって、ふとした拍子にポロッと涙がこぼれ落ちる作品だった。

 冒頭でジェルソミーナが家族にはした金で売られても涙を流さなかったのに、教会で盗みを働くようにザンパノに言われ殴られてシスターたちに「ここに居てもいいのよ」と言われても、イル・マット(サーカスで出会う綱渡りの大道芸人)からかけられた言葉から「自分はザンパノにとって必要な人間」ということだけが生きる意味となっていて泣きながらザンパノと教会を後にするシーンが一番心に刺さった。

 現代は、インターネットでもなんでも学ぼうとすれば、芸や技術を身に着けようとすればいくらでも成長することが出来る分、才能が世の中に溢れかえっている。
 「自分なんて何もできない」「自分は何も持っていない」と思う瞬間はいくらでもあって、それでも何かを手にするためにもがいている人間は多い。

 だからこそ「誰かの役に立つ」「誰かに必要とされている」ということは生きる意味になる瞬間があることもよくわかる。
 その生きる意味を無くしたとき、信じるものに裏切られたとき、人は簡単に希薄になって死んでしまうのかもしれない。
 ラストシーンのザンパノの慟哭は、因果応報だしやりきれないし何も取り戻すことは出来ないけれど、きっと希望の道に繋がるのだと思う。

 暗く貧しい何気ない世界の片隅を切り取った、とても優しくて哀しい映画で、好きな作品の一つになった。


【備忘録的メモ】
フェリーニの作品の中では最後のネオリアリズム映画といわれる。
 当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また頽廃主義の克服として、1930年代ごろすでにあらわれ始めた新たな社会参加から生まれた。知識人は歴史的責任を自ら引き受けなければならず、人々の要求を代弁しなければならないという考え方が、この時期広まっていた。
 同じネオリアリズムの映画監督であるビスコンティは伯爵貴族であったが、フェリーニは少年時に神学校を脱走してサーカス小屋に逃げ込んで連れ戻されたり、10代で駆け落ちをしたり、ローマで放浪生活をして詐欺師にまでなっていた過去がある。

 ジェルソミーナを演じる俳優ジュリエッタ・マシーナはフェリーニ監督の妻で、ムッソリーニ政権から隠れて生活していた2人は政権崩壊後の1943年10月に結婚している。

 当時のイタリア映画の慣習から、撮影は音声の録音が行われず、会話と音楽と音響効果は後で追加された。ゆえに、キャストたちはそれぞれの日常の使用言語を撮影中に話しているので、口と音が全然あっていない部分が見られて面白い。

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