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らしさの武装と嗅覚 14


ベランダで洗濯物を干していると、後ろから圭が抱きついてきた。

ままー、きょう、ぷーるいこぉ〜!

8月の陽ざしはきつい。出来ることなら外になんて出たくない。でも、彼女の言葉を無視するなんていう選択肢は、私の中にはない。下半身の自由を奪われながらも、そうね、これが済んだら行こっか。と、纏わりつく小さな生き物に言った。

この子の「まま」になって、もうすぐ2ヶ月。今は幼稚園も夏休みでのんびり過ごせているけど、先月はかなりバタバタしていた。真柴さんは、朝早く仕事に行ってしまうから、彼が帰ってくるまでは、彼女と2人っきり。特に辛いことはないけれど、まだまだ分からないことが多過ぎる。子どもって生き物は謎だらけ。私にだって子どもの時があったはずなのに…頑張って頑張って少しずつ掴んでいくしかないと思ってる。


もうすぐ1年経つのかと、圭と手を繋いで夏空の下を歩きながら思う。


異動になったばかりの私は、バインダーを持って各課を回っては、聞き取り調査という名のアンケートを取るのが仕事だった。仕事の邪魔だとあからさまに顔や言葉に出す人たちを次々回るだけの日々。それでも、初めの頃はまだ良かった。ここに居れば、あの人との仲がスムーズに進むと信じていたから。新しい仕事でもまた認められればいいんだ、と思っていた。でも、あの人と話を進めるどころか、前以上に連絡が取り難くなった。何度掛けても電話に出てくれない。そんなに忙しいの?と、心配になって何度かフロアを覗きに行こうとしたけれど、仕事はいつも二人一組。何も出来ずに月日ばかり過ぎて行った。本当に、毎分毎秒あの人のことばかり考えて過ごしていた気がする。


それが今はどう?こうして4歳の女の子のご機嫌をとりながら、家事をするだけで一日が終わってしまう。夏休みの思い出も作ってあげないとだめだから、考えないといけないことが山ほどある。

まま、けいねー、はなびしたいー

圭が繋いだ手を前後に大きく振りながら、私を見上げている。花火は既に買ってあるけれど、

花火はパパがおうちにいる時にしようか。パパを除け者にしちゃうと可哀想でしょ。わざと戯けて言うと、圭はけらけらと笑う。本当は、まだ2人きりで花火をするのが怖い。もし、目を離した隙に火傷でもさせたらと思うと。圭は面白がって、ぱぱわっ、のっけものーっ、と歌のように繰り返しては笑っている。


あの日、「大丈夫?」って気に掛けて「無理しなくていい」って優しく言ってくれたあの人。こんなにも私のことを心配して想ってくれる人がいるのかと、涙が出た。あれからだ…あの人の言葉も行動も何もかもが私の方に向いているように思えて、嬉しくて楽しくて仕方なかった。キスして、そして背中を抱いてくれたあの時の感触や温もりは、2年経った今も覚えてる。

じゃあ、その後はどうだったの?と、相変わらず問い掛けてくる意地の悪い自分もいる。

仕事も認められるとか目に止まるとか、そんなことには無縁の部署だとすぐにわかった。あの異動が私にもたらしたものは、ただの現実だった。

あの人と私では住んでいる世界も、見えているものも全く違うんだということに、少しずつ気付き始めたのもこの頃。私がどれだけ叫んでも泣いても、あの人の耳に届くことはない。その証拠に、あの人が私に向けてアクションを起こしてくれたことなんて一度もなかった。たったの一度も。電話を掛けるのはいつも私。それも何日も、何十回も掛け続けてやっと…。その電話番号さえ、あの人が教えてくれたわけじゃない。私が、自分で、麻奈ちゃんから聞き出したもの。映画やカフェや展覧会も、一緒にどう?って仕事終わりに声を掛けてくれたのは麻奈ちゃん。そう、一緒にどう?…って。あの人から誘われたわけじゃない。そんなことにも気付かないまま、あの日を繰り返し反芻することで望みを膨らませて、幸せを感じ取ろうとしていた。あの人も私と同じ方向を向いて進んでくれているんだと…。

あの頃、もし、もしも私から誘っていたら、あの人は応えくれてたんだろうか……たぶん声を掛ける隙すら、与えてもらえなかった気がする。

今なら分かる。あの人は、私になんて何の興味もなかったってこと。考えたくはないけど、あのキスさえあの人にとっては天気雨みたいなもの。あの人にとっての私は、風景の一部。過去にも未来にも、あの人の焦点が私に合うことはない。悲しいけど…。

でもあの頃は、こんなに想っているのに…あの優しいキスはなんだったの…あの温かい言葉はなんだったの…って、何故?どうして?ばかりに支配されて気が狂いそうだった。お願いだから離れて行かないで、と思っていた。離れるもなにも、1ミリだって距離を縮められたことは、一度もなかったのに…。

一人になると、行き場のないあの人への気持ちでおかしくなりそうだった。そんな時に、時間潰しで通うようになった小さな映画館で真柴さんに出会った。一昔前のドラマみたいだという人や変に勘繰る人もいるかもしれない。だから、表向きは友達の紹介ってことにしようねって話してたけど、結局そこまで尋ねてくる相手は、私たちにはいなかった。

時々会う穏やかそうな人。何度か顔を会わすうちに、会釈から言葉での挨拶へ、そこから少しの世間話へ…。映画館の前で偶然会った日、映画を見ずに初めて2人でカフェに入った。彼は映画の内容は何でもいい。余計なことを考えずに一人になれる空間が欲しい。無音だと余計なことを考えちゃうからと笑っていた。私も同じです、と…。その後、映画が食事に変わり、休日には2人が3人になった。

真柴さんは、ユウキと呼ぶことを許してくれた。私がなぜそう呼びたいのかも聞かずに、由香さんがそう呼びたいのならって。圭のことを少し負い目に感じているみたいだったけれど、私はそんなことどうでも良かった。呼ぶことの叶わなかった名前を呼べること、そして、呼ぶ度に微笑みで応えてくれる人がいること、それだけで、大きく空いた穴が少しずつ埋まっていく気がした。何もかもを欲しがっちゃダメなんだ。名前を口に出来るだけで、それだけで、あの頃よりは幸せじゃないかって。

圭のこともあって無駄に時間を過ごせないと、彼は言った。私は何もかも正直にそのまま伝えてくれる彼に、好感を持った。そう、好きとは違う、好感。この人は私を必要としてくれている。私はそれだけで良かった。もう、一人であれこれ考えを巡らせるのは嫌だ。今何を思っているのか、どうしてそういう行動をとるのか、すべて示してくれる人が良かった。だから、家族になります?と私から言った。

式も披露宴も、すべて私の希望を通してくれた。私は、セレモニーがやりたかった。ドレス姿を見せたい人がいたから、幸せそうに笑う私を見て欲しかったから。今からでも遅くないって思わせたかった…その人の中に、ちっぽけでも良いから後悔の火を灯したいと思っていた…でも、当然その人は来なかった。分かってた。そんな古い映画のようなことが、現実に起こるわけがない。



ままー、かえるときにね、あいすかってくれる?

プールの帰りは、2人でアイスを食べるのがいつのまにか定番になっていた。良いよ、今日は何味にしようか?食事に支障が出ないよう、二つに分かれるアイスを買う。圭は、その味を決める係。

どうしよっかなー、みてきめるっ!

圭は朝から晩まで一日中、私の後をついてくる。しばらくご実家で預かって貰っていたという影響なのか、お風呂もベッドも私と一緒じゃないと気が済まない。だから、彼も私もまだお互いの身体を知らない。でも、私はそれで良いと思っている。


ままー

私を呼ぶ声がする。「まま」と呼んでくれるとユウキと呼ばせてくれる人がいる。私だけを見てくれる人がいる。必要だと思う者同士が家族になった。ただそれだけ。馬鹿だと笑うなら笑えばいい。


身体の奥底からじぃんと熱を持ってほどけていくあの感覚と火照り……私はそれだけは絶対に捨てない。

私の幸せは私が決める。埋み火を抱え……



(了)




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