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アジカン新曲「解放区」を聴いた

※本日2019/05/15発売の #アジカン#解放区 」を聴いた感想です


最近「解放」って言ったのいつだろう?

僕はこの言葉を聞くと、
世界史の教科書で見た挿し絵を思い浮かべる。
大きな旗を降った偉大な人物が民衆を自由へ導いてくれた、
なんか立派な歴史のはなし。

でもたぶん僕たちは「解放」という言葉を日常的に使っている。
ついこないだGWが始まって終わった。
仕事からの、卒論からの、バイトからの、家事からの「解放」?
そして、旅行疲れからの、日焼けからの、夫源病からの「解放」?
もしかしたら平成からの「解放」?
もう  ゆとり世代は、って言われない?

解放ってなんだろう。

それはさておき、
この曲を聴いていてもっとも気になるのは、
ポエトリーリーディングとゴスペルの部分が
1曲のロックミュージックに一体化していることだ。

前作「ホームタウン」収録の「レインボーフラッグ」では、
テンポやノリを変えて、別スペースをとってゴスペルを導入していた。
しかし今作では一曲としてまとまっている感覚がより強い。

ポエトリーの箇所は、
脳が活字として受け止めたのか、メロディで聴くよりも情景を思い浮かべる余地があったように思う。
次々と差し変わるシーンが、静かに感情を掻き立てる。

ゴスペル部分は、ポエトリー部分との対比で、歌う意味・人が集まる意味・大きな声の意味、音楽の根元的で原始的なパワーが伝わってきた。MVを見るとみんないい顔している。同時に窮屈そうな自分の体がウズウズした。

さて、解放ではなく解放「区」なのはなぜだろう?

「自由の裏路地」と歌詞にある通り、
そして「メインストリームで迷子になった」とかつて歌ったように
(2015年のホワイトアルバム収録の「オペラハウス」)、
アジカンの世界には場所への意識が強く表れているように思える。

人の身体の生命力や生々しさを強く希求した結果、それを拘束したり、逆に身を委ねることになる「空間」にも必然的に目が向いたのかと思う。

ポエトリーを締め括る印象的な言葉である「地名だけが古いままの新しい地図」は、そんな場所の持つ難しさを一言で表している。
その場所には、そこで生きてきたものたちの歴史が刻まれている。それを無視することはできない。それを受け継ぎつつ、たとえば自分の直径5mの空間から、草の根的に新しい世界を編み変えることもしてゆく。

時代のなかで自分の時代を作る!
…という小さな決意を示しているようにも思えた。

時代のなかで自分の時代を切り拓いてゆく。

ちょうど元号が変わったこの国は、もう一度年越ししたかのような雰囲気に包まれたが、本当の意味で時代を変えられるかはこれからの若い世代、僕たちにかかっている。

冒頭で思い浮かべた世界史の挿し絵は、過去の体制に風穴を開けたエポックメイキングな勇ましい雰囲気が漂っていた。
貴族や領主からの支配の時代を終わらせるという意思。

このように「解放」という言葉には、言いようもなくプラスイメージがまとわりついている。

しかし、何かから解放されることは、何かに別れを告げて違う道を自分で探すことと同じなんだと、この曲に気づかされた。

今いるところから「沿道の君」に「手を振って」見送られる切なさもある。
たぶん不安も怖さもある。
その心持ちによってこの行動は
「解放」にも「逃走」にもなる。

それもわかった上での、切実な「解放」の叫びが、
大勢による力強い叫びが、
自由とはなにかを問いかける鋭い視線が、
心に刺さります。

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