落合陽一のアーティストとしてのステートメントの中に質量への憧憬というものがある.デジタルから見た物質性,質量性への憧憬である.メディアアートの本歌取りみたいなものだ.
NFTと500年持つと言われているプラチナプリント(おそらく支持体に依存するのでちゃんと保存すれば1000年〜くらいはいくのかもしれない),どちらの寿命が長いか気になってきた.そしてこの問いかけは作品になるかと思った.本質的に非中央集権である物質の寿命とブロックチェーンの寿命.直感的にはNFTはそこまで持続しない.しかしやがて失われたNFTにアクセスできないという儚さはときに批評性を持つ.それはまさに幾多のメディアアートが起動しないコンピュータや揮発したROMによって死んでこそ完成されていったことに似ている.様々な手法は生まれるだろうが,数百年単位で見れば遅かれ早かれ(どんなに工夫を凝らしたとしても)ネットワーク上のシステムは維持されずに死に絶えていくだろう.
さて,それをテーマに連作を作ろう.それはまさに質量への憧憬である.質量性が残り,データは忘れ去られていく.もしくは質量あるものが壊れ,データも忘れられていくかもしれない.この創作活動をライフスタイルに組み込み,日々1つずつNFTとして上げていく(その分だけコントラクトアドレスが付与された現物のプラチナプリントも作っていく)
下記のリンクからNFTにはアクセスできる.
現物は現物で流通させる.それにはCOAをつけて管理する.それが示すのはNFTが存在し続けるかどうかという問いと,データと物質性の間にある質量への憧憬や儚さのようなものだ.
https://opensea.io/assets/0x495f947276749ce646f68ac8c248420045cb7b5e/49129412008169772786986690209537281524902027925806806199562930622277561090049
何日か続けていこうと思う.プラチナプリントした実物ももちろんどこかで販売できればと思っている.どちらの方が長生きだろうか.質量あるものは壊れる.質量ないものは忘れる.メディアアートとアーカイブの本質を探して,今日も質量への憧憬を持ち続けている.
ちなみにプラチナプリントの作品は下記の価格感で販売してお客さんのお家に引き取られていく(エディション数によるが)
ちょっと考えていた.物質性やNFTに対する批評性やその辺のメディア性自体も考えないと行けないのだろうなぁと.かつそれをステートメントにして動いてきたことも必要な過去なんだろう.
映像と物質をテーマに作品を作り続けてきたことがここに繋がっている.
質量のあるものは壊れる質量のないものは忘れる.プログラムはほぼ揮発する.
追伸:
本日の分(1.6億画素)
https://opensea.io/assets/0x495f947276749ce646f68ac8c248420045cb7b5e/49129412008169772786986690209537281524902027925806806199562930623377072717825