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「失われるものと質量への憧憬」−社会彫刻と時間(前編)

自分はメディアアーティストで研究者だからメディアと時間についてよく考えてしまう.社会彫刻といえば一般的には下記のような説明がされるだろう.

ヨーゼフ・ボイスの提唱した概念で、あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる、すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない、という呼びかけである。それは、「芸術こそ進化にとっての唯一の可能性、世界の可能性を変える唯一の可能性」というボイスの信念から発している。ただし、そこでの「芸術」とは、芸術史から出てきたような芸術の観念——彫刻、建築、絵画、音楽、舞踊、詩など——ではなく、それを超えた「拡張された芸術概念」であり、「目に見えない本質を、具体的な姿へと育て」、「ものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展・展開させていく」こと

思えばメディアアートそれ自体にテクノロジープラットフォームから離脱する社会彫刻性を求めたのが魔法の世紀中のアートへの言及だったのだと思う.

今更特に社会彫刻への言及は特にないのだけれど,先日ポケモンの石原さんを大学の授業で招いてお話しさせていただいた際に,ヨーゼフボイスの来日録のビデオと書籍を作られていたというお話をしていただいて思い出した.石原さんは筑波大の大先輩にあたる.

落合は社会彫刻のことを考えたときにタイムスケールを意識する.

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たとえばフェムト秒レベルで作品を作る儚いものからプラチナプリントのような時間の長いものまでの間にクリエーションを並べて考える癖がある.

メディアアートの基本的な考え方がメディアコンシャスなアートならば,メディアアーティストがどのメディアを選択し,そこに何を表現するのか,という文脈性は常にメディア批評性を包摂する.一言で言えば寿司,二言でいえば茶道のお道具である.

そう,つまりメディアアートと茶道はとても似ていると思う.

新しいメディアを作るという意味は,突き詰めるとメディアコンシャスの取り合わせで会って,万物がメディアの性質を持つとするならばメディアアーティストの行う社会彫刻というもののは見立ての世界観の中にあるものだろう.

茶道で過ごす時間が華厳や物化に繋がっているのはいうまでもなく,ナムジュンパイクが物化が道士の夢と言っていたものはおそらくプログラマーが魔法使いを目指すものに似ている.

そして,社会彫刻と時間スケールの話は質量への憧憬へと繋がっている.今日はそんな話を.

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