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なんちゃってで禅をしてみた。

就寝 24:00
起床 11:00


こんにちは。
最近禅をやり始めた。
禅と言ってもかなり適当なもの。
座禅もやるし、なんか寝転んでるのもやるし、そもそも禅じゃないのかもしれない。

一応禅と瞑想は自分の中で区別をつけてやってる。
ネットでの調べ曰く、禅はただただ自分を見つめるもので禅を行うことそのものに目的をもつらしい。
瞑想は自分を見つめ肯定するもので、穏やかで安らかな気持ちを目指すという目的があるという違いがあるみたい。
一々自分を肯定したり目的性のあるものは疲れるしなんかムリそうなんで僕は禅をやることにした。

座禅はしっかり座り方とかが定まってるらしいけど、堅苦しいのは苦手なので僕は一先ずネットで見たものをまとめて自分なりに禅を定義した。
「ひたすらに自分の感情や思考、身体の感覚を見つめ続ける。それらに解釈はせず、また禅に目的を持つこともなく、同じ姿勢を維持し続ける。」
こんな感じで座位とかにはこだわらずいくことにした。

禅をしてみると色んな気付きがあった。
禅してみたときの自分の心身の状態や感覚の変化についてまず語った方がええかな?
まず最初の段階では、自分の頭の中や身体の感覚は乱雑で曖昧な感じやった。
自分の中になんか衝動があるけど何考えてるかもわからんし言語化されてない。身体の感覚もはっきりしない。
頭も体もざわついてる感じ。
それが一分くらい経つとピタッと止む感じがある。
頭の中のうるささも止むし、体のことも気にならんくなる。
次にまた頭と体がうるさくなる。
体はどこが痒いとか、どこが筋張ってて痛いとか逆に気持ちいいとかを訴えかけてくる。
頭は勝手に思考しだす。
「あーそう言えばあの課題やらなあかん。」「洗濯物洗って干さなあかんな。」「禅ってこんな気付きがあるんや。禅と現代病の関係ってなんやろか。」みたいな感じで。
それも放置しだすと身体の感覚は鈍くなったり鋭く訴えかけてきたりを繰り返す。
頭も勝手に思考しだしたり、逆に思考を停止したりを繰り返す。
そうして段々心身ともにはじめよりは静かな感じになっていく。

今ままでは心身のうるささに振り回されて行動していた。
一々感情や思考や身体の感覚に対して解釈をして、一喜一憂をしていた。
禅は一定時間心身をただ見つめるだけだから、日常生活とは逆の行動やと思う。

禅をしてみた中での一番の気づきは思考についてやと思う。
「僕は自分の意志で思考するわけじゃない。」
これが自分にとって一番衝撃的やった。
前までは自分は考えようと思って考えてるもんやと思ってた。
理性や意志が働いて思考をしてるんだと思ってた。
でも禅をしてみると全然違った。
考えようとしてなくても考えてしまう。
考えを深めようとしなくても勝手に深まっていく。
自分の意志とは関係のない衝動的な思考もあることに気付いた。
それは身体の痒みや落ち着かなさと似たような生理現象の一種に思えた。
すると急に「思考こそが自分である」という感覚も違うことが腑に落ちた。
思考は自分の中で特別視されなくなった。
思考は自分の一部ではあるけど、自分そのものではなかった。
以前から仏教系の本を読んでこれに近しいことは知ってはいたが、ちゃんとしっくりきて納得できたのは初めてだった。

更にこの禅をしている際の衝動的な思考はすごく捗ることにも気付いた。
一生懸命考えようとしているときよりも進みが速いし自由度も高い。
考えようとするよりも、考えることを放棄する方が思考は進むのかもしれない。
今も禅をしていた時に思い浮かんだ中で僕が記憶しているものを適当に書き連ねているが結構書けてる。
この思考は意志を伴わない分ある意味自然に思える。
この思考を良いとも悪いとも考えずただただ書くことに集中してnoteを作ることは禅に近いものなのかもしれない。
禅をやってみてnoteそのものに対しての認識も変わった。
なんか良かったから、これからも日常的に続けていきたい。

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