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「ビーアウトオブデンジャー」第十話

私は夢を見ます。私は二階の自室でベッドに腰掛けて、窓の外を見つめています。電線に止まった鳩は私に背を向けてどこかへと飛び立って行きました。私は鳩を羨ましく思い、窓の扉を開け二階から飛び立とうとするのです。窓から身体の半分を乗り出した時に、私の身体とは裏腹に私はつまらぬことを思うのです。これは夢なのではないかと、何故このような夢を私は今見ているのかと、そんなことを考える訳なのです。夢か現実かは飛んだら分かります。このまま体を外に投げ出すことが出来れば、夢。鳩のように飛べるか否かは関係ありません。とにかく、この部屋から私の身体が出れば夢なのです。飛ばない限り、それが夢だったのか現実だったのか、どちらだったのかは分からないのです。
 
デッドラインが間もなくやって来ます。私はホームから身体の半分を線路の方へと乗り出しました。足が震えています。私は母のことを思い出していました。これはそうしようとしてしたことではありません。自然に母のことを思えたのです。警笛が鳴りました。先程とは違って殺意のようなものを感じ取りました。
私は生きていました。意気地なしでは無かったのです。子供染みているかもしれませんが、私は勝ったと思ったのです。この阿呆め。
 震える足を無理やり落ち着かせながら、改札へと続く階段を下りました。改札を無理やり抜けて、私はひたすらに歩きました。家には帰りたくないような気分でした。喉が渇きました。何故、喉が渇いたか、それは喉が渇いたからです。公園に行き、あの日雨に打たれていた自販機の前に辿り着きました。暗闇の中、ただ自販機のみが一点の光を放っていました。ダウンのポケットに入れてきたいくらか小銭の内、百二十円を取り出して小さなサイズの水を買いました。これが世界一美味かったと思います。理由は喉が渇いていたからです。
 「バチッ」「バチッ」
 帰り道、コンビニに寄って一冊のキャンパスノートを買いました。私はノートを広げて正の字を足していきます。それは決して、彼、彼女達のためではありません。私がそうしたいからそうしているのに過ぎません。何故このようなことをしているのかは私もさっぱり分かりません。
 
バイクの走る音が聞こえます。新聞の配達がもう始まっているようです。朝を待ち望んだのは久しぶりのことでした。窓の外を見ると電線の上に止まった一匹の鳩がこちらを見ています。私は壁に立て掛けてある、ビジネスバッグに目をやりました。そして鳩の方に視線を戻しベッドから身体を起こして、窓の方へと向かいました。窓の扉を力一杯開けると、鳩が飛んで行ってしまいました。私は外の空気が身体中を巡るよう、精いっぱい息を吸い込みました。ビジネスバッグを手に取りベッドに腰掛けて、バッグを逆さまにしました。私にとってはどうでもよく見えるような書類や、貴重品、例えば財布とかそのようなものがありました。白色の封筒がありました。表側に「遺書」と油性のマジックペンで書いてあります。私は封筒を丁寧に破いて中身を取り出しました。A4サイズの白い紙が一枚ばかり入っていました。まず、最初に手書きではないことに驚きました。封筒の表紙が手書きであったため、中身も手書きなのだろうとばかり思っていたのです。そこには自分のこれまでの人生について、そして家族への謝罪の意が書いてありました。奥さんに宛てたものだと思われます。文章の最後は「愛している。」で締めくくられていました。何故自殺に至ったかということは書いてはありませんでした。手書きで書いた方がよかったのではないかなと思いました。そしてワードで書いたと思われるその記号的な文字の羅列を見て、私は少しだけ怖くなりました。所々に改行がしてあります。文章の構成も練られています。章分けはされていません。ですが、章分けに見られるような大きなスペースはありました。彼は自身の命が間もなく尽きるということを理解しながら、その胸中を書き、それでいて読み手のことを気にしながら、文章として成立させようとしていたのです。この遺書を印刷しているとき彼は一体どのような気持ちだったのでしょうか。この遺書のファイル名はなんだったのでしょうか。もし彼が私であったら、ファイル名を遺書と名付けた時点で死ぬことを諦めたと思います。人は衝動的に自殺するものだとばかり思っていました。身体が勝手にそうするものとばかり思っていたのです。自分の死を客観視して死んでいく人間もいるということを知り、私は少し不安な気持ちになりました。人は冷静に死んでいくのです。私は遺書を封筒の中に戻し、ベッドの上に乱雑に散らばったあれこれと一緒に、バッグの中にしまいました。
 
「トントントン」
 母は今日仕事に行っていないみたいです。急いでリビングへと向かうと、台所で母が何かを切っていました。
 「今日は休み?」
 「あら、起きていたのね。」
 「うん。」
 「私も一緒に食べていい?」
 「勿論。」
 私はベランダを背にするようにして椅子に座り、何かを切っている母の背中を眺めていました。
 「デッドライン、なんだけどさ。」
 「ああ。デッドライン。」
 「どう思う?」
 「トントントン」
 「デッドラインについてどう思う?」
 「どうって、何が?」
 「いや、別に。」
 「トントントン」
 「私は、可哀想だと思うんだ。」
 「そう。」
 
私は席を立ち、自室へと向かいました。一段一段大きな音が鳴るように階段を駆け上がりました。ビジネスバッグを手に取って、また急いでリビングへと向かいました。
 「これなんだけどさ。」
 私はビジネスバッグを逆さまにして、敢えて雑に取り扱うようにして、中身を全てテーブルの上へとぶちまけました。母はこちらを気にするような素振りを見せず、何かを切っています。そして私は遺書を読み上げました。至って冷静に決まったトーンで淡々と彼の思いを読み上げたのです。
 「トントントン」
 彼女は何かを切り続けています。
 「可哀想ね。」
 と母は言いました。私は目一杯の力を腕に注ぎ、右の掌でテーブルの表面を叩きました。それでも母の様子は変わりません。私の方を見向きもしません。手の表面が赤くなり、痛みがじわじわと遅れてやって来ました。なんとなくベランダの方に目をやりました。私と母の下着が風に揺られ、たまにくっついては離れ、くっついては離れます。私は意を決してもう一度、掌で机の上を思いっきり叩きました。今度は両方の掌で叩きました。母はビクともせず、何かを切り続けていました。彼女は私を存在していないように取り扱ったのです。頼むからお願いだから、私をそうしないでくれと懇願するような思いで、私はもう一度、最後にもう一度だけ、テーブルを両手で叩きました。
「そろそろ出来るわよ。テーブルの上、片してもらえる?」
私は悲しくなりました。母もまたデッドラインを無かったことにしている側の人間だったからです。というよりも、母がそうであることはずっと前から分かっていたことです。それを今日改めて再確認することが出来たというだけの話です。それと同時に私は嬉しくもなりました。私はもう母の所有物ではないという実感があったからです。母と意見が食い違ったと思えたのは、生まれて初めてのことです。食い違った際に生まれた歪みに、私がいたのです。
 私はリビングを後にして、玄関から飛び出ました。上下スウェットという格好だったので、外は少し冷えました。靴を履いてる時、「冷えるわよ。」という声が台所から聞こえて来ました。私は返事をしませんでした。駅へと向かっていました。電車に乗ろうと思ったのです。途中あのコンビニが燃えているのを見ました。コンビニの真上の空だけが夕方のように赤く染まっていました。美しい、そのようなことを思いたくなりました。ですがその訳を考えるとそこに明確な理由はありませんでした。理由が無くたって別によいのです。私は燃えているコンビニを見て、美しいと思ったのです。それでよいのです。
 駅に着き隣駅までの切符を買って、私は電車に乗りました。行く先は決めていません。ホームで電車を待っている間に、大勢の人と目が合ったような気がします。先日車内で大きな声を出した時、私の顔は人々に認知されたのかもしれません。私は今日、電車の中で大きな声を出すつもりはありません。そのような気分ではないのです。ですが、多くの人が私を恐れていることでしょう。早く私のことを皆が忘れたがっているのでしょう。
 私はホームの一番端に立ちました。一番前の車両に乗りたいと思ってからです。電車がやって来ました。私が乗る電車です。車両の中はポツポツと席が空いている程度で、割と混んでいました。私は運転席の方を見るようにしていました。車掌さんの背中越しに遠くの景色が見えます。電車が速度を上げるに連れて、一つ一つの建物がスローモーションになって一つに固まっていきます。見ていて面白いなと思いました。
左に目をやると、私の家がありました。今日はいつもと反対方向へと向かう電車に乗っているのです。デッドラインはこの線路を使っています。つまりこの電車もまた私の家の真裏を通るのです。
 「ガタガタガタ」
 という音が聞こえます。この角度から自分の家を見るのはとても新鮮です。当初白く塗られていたはずの外壁は黒く薄汚れ、所々にヒビが入っています。年季が入っているというのか、停滞しているのか、よく分かりませんでした。
 粘着質のある音が鼓膜に張り付きました。次の瞬間に電車が急ブレーキを掛けました。おお、とか、うぅ、とかその類の小さな悲鳴のようなものが聞こえました。私は前方の窓に頭をぶつけてしまいました。車掌さんの背中越しに、真っ赤が見えました。とにかく赤いとそればかりを思いました。車内は静まり返っていました。私は心底震えました。そして私の身体もまた震え出しました。この赤は人間の身体の中を流れているものです。よく見ると真っ赤ではありません。黒ずんだ赤です。これは血です。人が電車に飛び込んだのです。真昼間に人が線路へと落ちたのです。何年振りのことでしょう。電車は動きません。後ろを振り返ると、携帯電話を見たり会話をしている人達がいます。誰の足も震えてはいませんでした。そこにはいつもの日常がありました。いやまだです。電車のフロントガラスには黒ずんだ血が塗りたくられています。これは日常の中で起きたことなのです。つまり、私達の生活の中で今、人が死んでいったのです。これを認めなくてはなりません。どう受け止めるのかは人それぞれですが、今、人が死んだという事実は何が何でも認めなくてはならないのです。人々が望む日常がもの凄いスピードで車両内を覆いつくしていくのを感じました。誰も慌てておらず、普通に会話をして、当たり前のように携帯電話を見ている。互いに互いを確認し合って、何も起きていないことを認め合う。異常だと私は思います。
 「自殺かよ。」
 と一人の人間が言いました。男性か女性かは覚えていません。大した問題ではありません。
 「迷惑なんだよ。」
 「勝手に死ねよ。」
 という声が私の耳に届きました。私はポケットの中から、彼の遺書を取り出し大きな声で読み上げました。辺りは静まり返っていました。途中誰かが笑いました。それでも私は続けます。彼の遺書を最後まで読み上げるのです。誰も聞いてはいませんでした。日常が私を呑み込んでいきます。
 「うるせえよ。」
 という声が聞こえました。私から見て斜め右前の座席にいる人が言いました。
 「人が死んだんですよ。」
 私の声は震えていました。
 「だから何なんだよ。」
 だから何なのでしょう。はっきりとした意志で、私は人を殴っています。とにかく殴りました。涙が出ます。泣きながらいつ殴るのを辞めればいいのか考えていました。私はつくづくつまらない人間だなと、自分に思います。彼の黒ずんだ血が私のスウェットに付きました。車両内からは悲鳴のようなものが聞こえます。私は嘘偽りで作られた日常を殴ってやったのです。やっと手が届きました。後ろから数人の人間達に引っ張られ、私の手は届かなくなりました。終わり方を決めていなかったので、助かったというような気持でした。
 電車はまた動き始めました。誰も喋りません。これでいいのです。これが今日という日のの日常なのですから。
 ドアが開くと同時に目の前にいる人達を力づくで掻き分けて、電車から抜け出しました。後ろを振り返らずとにかくひたすらに走りました。改札を抜けてもなお走り続けました。私が殴った相手は死んではいないはずです。息はしていましたし、殴られた後もずっと私のことを睨んでいましたから。でもとにかく走りました。この上ない高揚感に包まれているような気分になった私は、それからもしばらく走り続けました。
 公園に寄って、トイレの前にある自販機へと向かいました。相変わらずこの自販機は浮いています。私と同じく景観を壊しています。小さなサイズの水を買いました。美味いと感じるであろうことを予期してしまっていたので、あの時のような感動はありませんでした。でも美味しいと思いました。
 ベンチに腰を掛け、少し休むことにしました。なんとなく辺りを眺めていると、二人の少年が滑り台で遊んでいました。近くにいる一人の男性が二人を微笑ましく見守っています。この男性は片方の赤い服を着た少年の父親だということが分かりました。何故なら赤い服を着た少年の頭を撫でていたからです。黄色い服を着た少年にも柔らかな表情で何かを言っていましたが、体に触れることはしていませんでした。少し離れた所に、もう一人男性がいることが分かりました。彼はすべり台からほんの僅かですが距離を置いているように見えました。黄色い服を着た少年がすべり台の頂上で何度も彼のことを見ていました。私は少し勇気が出ました。あのような人間でも、親になれるのだなと思ったのです。
 サッカーボールが私の足元の方に転がって来ました。とは言っても、目の前ではありません。数歩離れた先でボールは止まりました。ボールを取ろうかどうか少し悩みました。公園でフェンス越しに向けられた、女性の眼を思い出していたからです。悩んでいる間にボールは無くなっていました。
 私は子供を羨ましく思います。それは選択肢が少ないからです。ここにいる少年、少女達は自分が生きていることを意識しているようには見えません。全てが当然であるような顔をしているのです。この公園には嘘がありません。確かな日常がありました。
 サッカーをしている中の一人の少年がつまずき転びました。膝を擦りむいた程度のことです。ボールは止まりました。
 粘り気のある音が私の鼓膜に張り付いています。あの音が何度も何度も私の耳元で鳴るのです。私は両方の耳に指を突っ込みました。すると、音がより鮮明に頭の中で響きました。右手の甲がヒリヒリと痛みます。血が付いていました。自分の胸元に目をやると、スウェットにも血が付いていました。先程ボールを取らなくて良かったと思いました。
右手が動きにくいような気がました。右手を動かすよう指示したのは私です。ですが思うように右手は反応してくれません。右手を動かそうとすることと、右手が動いたということは別なのではないか、と私はふと思いました。
これまで私は「右手を動かそうとして、右手が動く」ということを自分だと思っていましうた。今のように右手が動かなくなった場合、それでもなお右手を動かそうとするのは私なのでしょうか。そしてまた動かなくなった右手もまた私なのかどうか、私には良く分かりません。良く分からない私は、右手を動かそうとする者なのでしょうか。どうだっていいなと思います。そんなことを考えても一つも面白くないのです。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。