「ビーアウトオブデンジャー」第五話
目を覚ますと、昼を過ぎていました。窓の方に目をやると、電線に止まっている一匹の鳩が私の方を向いていました。柄にもなく、鳩に向かって中指を立ててみました。少し恥ずかしい気もしたのですが、私は何かに向かって中指を立てることが出来る人間になれたのです。鳩は変わらず私を見つめていました。腹が減ったので、リビングへと向かいました。ベランダに干してある洗濯物が日光を遮り、母の下着と私の下着は隣同士。いつも通りの昼間です。食パンをトーストしてみてはどうかな、と思いました。自分の機嫌が良いのは久しぶりのことでした。冷凍庫から食パンを取り出して、カチカチになったパンの表面にマーガリンを塗っていきます。途中で一度携帯電話を取りに部屋に戻りました。それからまたリビングに戻って携帯電話から音楽をかけました。クラシックです。曲名は知りません。とにかくそんな気分だったのです。それからトースターに食パンを入れて、私は流れている曲に合わせ少し体を揺らすようなことをしてみました。踊ってみたのです。徐々に恥じらいを超え、昔なんかの映画で見た社交場のシーンを思い出しながら、みっともないステップを踏んでみました。今、母が突然帰ってきたら、私は恥ずかしさで卒倒してしまうでしょう。ですが身体は自由なようです。制限しているのは私の方だったのかもしれません。
私のダンスショーは「チン」という、トースターの音で幕を閉じました。熱を帯びた食パンの真ん中で、マーガリンがマグマのように煮立っていました。冷凍している状態でマーガリンを塗るのは母の見様見真似です。その方が綺麗に塗ることが出来ると昔母が教えてくれました。食パンが乗った皿を持ちながら、自室へと向かいました。リビングで食事をすることもあるのですが、基本的には自分の部屋で食べるようにしています。リビングは私の部屋ではないのです。
ベッドの上に座って、食パンを齧りました。テレビを付けるとワイドショーがやっていました。芸能人の不倫について、芸能レポーターという肩書の人がアレコレとお喋りをして、それを受けた色んな職種の人達が、「許せる」とか「許せない」とかそんなことを言っていました。私にはそれが不思議で仕方がありません。「許せる」も「許せない」もないのです。だって他人の人生について言えることなんてないのですから。
デッドラインがテレビで触れられたりすることはありません。開通した頃は、連日どこのチャンネルをつけてもデッドラインが特集されていました。ですが、現在の私達の生活の中で、デッドラインは存在しないことになっています。デッドラインは夜中に淡々と機械的な速度で線路の上を走ります。線路の途中に人がいても、いなくても走り切るのです。ただそれだけのことなのです。死にたいと思っている人間が自ら死を選んだことに、人々は興味を示しません。同情もしません。しようと思えば出来るのでしょうが、そんなことを一々していれば、自分の生活が壊れてしまいます。でも赤の他人の色恋沙汰には、人々は関心を持ちます。それがおかしなことだとは思いません。ただ間抜けだなとは思います。
昨日のことを思い出していました。今朝の新聞を見ると、自殺者の数は二人とありました。警笛の直後に聞こえたあの粘り気のある音が耳から離れません。デッドラインは自動運転と聞いていますが、何故あの時汽笛が鳴ったのでしょう。あれは一体どのような意味を持つ音なのでしょうか。自殺を食い止めようとしているのか、もしくは、分かりません。あの粘り気のある音は人が死んだ音なのでしょうか。私の家の真裏から聞こえる音とは違ったように思えます。テレビに映る人達が笑っています。皆が笑っているのです。私も笑ってしまいそうになります。実際に少し笑ってしまっていたような気もします。
「バチッ」
昼にあの音が聞こえるのは初めてのことでした。
私は名無し駅の前に立っていました。デッドラインはすでに何本か走り出しています。ポケットには一万円札が二枚入っています。改札の前で私は突っ立っていました。何故このようなことをしているのか、自分でも良く分かりませんでした。ただの好奇心なのかもしれません。二万円は母が隠しているへそくりからお借りしました。後で返すつもりです。私は切符売り場で電子パネルに書かれた「20000円」をタッチし、一万円札を二枚入れました。すると中から「ご乗車ありがとうございます。」と黒く印字された真っ白な切符が出てきました。お金というのは使うだけで、誰かに感謝されるのです。
改札の前に行き周りに誰もいないことを確かめてから、改札機に切符を通し中へと進みました。私は切符が出てくるのを思わず待ってしまいました。ですが、切符は出てきません。次の行き先が私にはないとされたからです。この改札を超えたらもう戻ることは許されないのです。改札を抜けると右側に階段とエレベーターがありました。真っ白な壁に真っ白な床、どちらも大理石のようなつるつるした素材で出来ていました。大理石だったのかもしれません。私は階段を使いました。反省したような気持になるのはきっと、この白色のせいでしょう。登り切った先には、右側にトイレ、左側にはホームへと繋がる階段がありました。私は真っ白な階段を下りました。ホームは至って普通の駅でした。至って普通の駅だったのです。違ったのは、反対側にホームがないということくらいでした。名無し駅は、ホーム全体が外から見えないようになっています。全体の外観は真っ白で巨大なロールケーキのようなのです。人がデッドラインに引かれる場所だけが、ロールケーキになっているのです。空が見えるのは初めて知りました。電車の横幅と同じサイズの空が見えました。星が出ていたかどうかは分かりません。ホームは何故真っ白ではないのでしょうか。どうして、いつもの駅と同じ色をして、同じ構造をしているのでしょうか。私はその場で嘔吐しました。そしてまた反省をしました。ごめんないさという気持ちで一杯になりました。足が震え始め、私の身体は私の気持ちを知ろうともせず勝手にその場で屈み始めました。目玉だけは私と通じ合っています。目の前にある私の嘔吐物を見て、白が基調とされていなくて良かったなと思いました。自分自身に対して余裕な態度を取って見せたのです。
階段を下りる音が聞こえて来ました。足音です。その音がどんどん遠のいていくのが分かりました。私は足に力を入れ立ち上がり、ホームの右端に目を向けました。知っている顔でした。鼓動が早くなりました。彼女は誰なのでしょう、思い出せません。でも知っているのです。彼女から私は目を離しませんでした。人のことをこれだけ見続けたのは初めての経験でした。死ぬのですから、どう思われてもいいのです。それなのに、デッドラインの始発から終電までの間に、律義に時間を守って我々はこうしてひかれに来ているのは不思議だなと、ふと思いました。
彼女はコンビニ店員さんでした。彼女から釣銭を受け取る時、私は彼女の手に触れました。だから覚えていたのです。彼女は、コンビニで私を見たときと同じような表情をして、線路の方を見つめていました。あれは動物の眼です。死にたいと思う人間の眼ではありません。自分の思った通りに寸分の狂いなく、足に力が入るようになっていました。私は漲っていました。心の奥底から力が沸いてくるのを感じたのです。デッドラインがやってきます。そろそろ汽笛が鳴る頃でしょう。私の身体は私の使命感に身を任せるようにして、彼女の元へと走り出しました。そして私は、「死ぬな!」と大きな声で言ってみて、彼女の手を軽く握りホームの内側へと引っ張ったのです。彼女はギョッと目玉を丸くさせ、私の顔をまじまじと見つめました。汽笛音が聞こえました。デッドラインが私の背中を通り過ぎて行きました。デッドラインの速度が思ったよりも遅かったことに、私は嬉しくなりました。デッドラインが起こした風が彼女の前髪を揺らしました。
彼女は下を向き、地面を見つめていました。どこを見ていいのか分からないので、一応地面を見ていたのかもしれません。私はその場からすぐに立ち去りました。私と身体の意見が一致したのです。私は改札を飛び越え、ひたすらに夜道を走りました。
星は確かに出ていました。
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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。