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転職日記その12 居場所としての銭湯

銭湯のことを考える時間が増えた。
銭湯に居る時間も増えた。
大変だし、どっと疲れることもあるけど、前職のときほど抜け殻でもない。ような気がする。
さすがに、自分ではどうしようもできないことで思いのほか振り回されて仕事が長引くと、どうでもよくなって全てをほったらかしたくなる感覚もある。
無性にイライラしてしまう時もある。
それでも何かに試されている気がしてならない。

伝わるかどうかはさておき、
銭湯は職場である前に居場所だという感覚が強いのかもしれない。
自分が居てもいいと思える場所。
自分を自分で傷つけない、むしろ傷が癒える場所(傷つけるというのは、転職日記その6にも書いたように、物理的ではなく感覚的なこと)。
ありがとうを直接、受けとることができる場所。

私はどちらかというと、未来のことよりも今このときの感覚をもとにアクションを起こそうとする、いわば原始人タイプだ。

仮に、ライターという職業を例にとるならば。
将来ライターになったほうがよいと思うから、とりあえず書いていこう!という思考よりも、
今書きたいから書いてて、だからなんとなく作家やライターに興味が湧く、みたいな思考回路が強い。
ほとんど後者ばかりのような気もするほどだ。
強い決意と行動力が伴う前者のタイプには頭が上がらない。

今の気持ちを考えるよりも、後々こっちの方がよさそうだな、みたいな思考を優先して物事を選ぶことがほとんどない。その時の感情をつぶさに観察して、極力それに寄り添った選択をする。
感情は木でいうところの根っこだ。根っこは無視しちゃいけないと、なんとなく思ってる。

良い悪いではなく、そういう性質が少なからず私にはある。

原始人タイプだから、就職したいという感覚よりも、この場所を少しずつ、より良くしたいと思う気持ちにもとづいてサポートを試みることから始めた。

助け合うことが社会の本質なら、銭湯は間違いなく社会の1つだ。この場所に足を運ぶだけで、誰と話すわけではなくとも、自分以外のことに触れる瞬間をほんの少し取り戻せるような、そんな機能があるように思う。

公共の空間で人が裸になる場所は、お風呂屋さんくらいではないだろうか。カフェやコワーキングスペース、レジャー施設などとはまた違う、自分の世界と他人の世界が裏も表もない状態で同じ場所にあるような感覚。
お風呂に入る行為が、ほとんど当たり前の日常として存在しているからかもしれない。
不思議な場所だと思う。

助け合いが〜とか、公共が〜と言ったものの、なんだかんだ根っこは一匹オオカミ気質だったりする。
とはいえ人間として生きている以上、社会という存在は切っても切り離せないし、どうせ離れられないのなら、少しでも心地よい場所を選ぶのがいい。

そういう感じで、日々の居場所のひとつに銭湯が増えたし、笑うことも増えた。色々あるけど、かかわってくれている人たちとこの環境への感謝を忘れず、自分の根っこにも適度な水をやりたいと思う。

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