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しぬまで母と同じ苗字で生きたいだけ

何故結婚したら女性が苗字を変えて生きなければならないのだろうか。

幼少期からの素朴な疑問である。これはフェミニズムでもなんでもない。
一人の人間としての自由意志を尊重してもらえるかどうかだけの問題だと思っているーー。

わたしには、二年付き合っている彼がいる。
たまに結婚の話も上がる。
「結婚しても苗字を変えたくない。」
と、まだ真面目に話せたことはない。
なんとなく、自分の苗字で生きていきたいことをちらつかせてみてはいる。
もし子どもができたらどんな名前にするか、という話をしていたときに
自分の苗字をあててみていたら、
「いやなんでお前の苗字なん笑」
と、言われる。あたかも彼の苗字になることが当たり前かの如く。
変な感じがする。この言葉を飲み込めずに息苦しくなる。

小学生の頃から結婚しても自分の苗字を名乗りたいと言い続けてきた。
右も左もわからないような小さなころから声高に叫んでいたのだから、もはや信念なのだと思い込んでいる。
意志決定をする時は、刻一刻と近づいてきている。

親は、わたしが幼稚園に上がる前に離婚した。
父との記憶はほとんどない。
ただ、自己愛の強い変わり者だったことは、話を聞いていたらなんとなくわかる。
それから、祖父母のいる実家に拠点を移した。祖父母は姉とわたしを宝のようにかわいがってくれた。
でも、物心ついたときから、「親」はたった一人だった。
女手ひとつで姉と私を育て、この苗字を守ってきてくれたのは紛れもなく母だ。
家族の団結力が強すぎたからか、わたしは自分の苗字に物凄く執着して生きてきた。

2018年、10月のことだ。
突然姉から電話がかかってきた。
「わたし、結婚するかも」
と言われた。
3秒くらい言葉を失ったが、ふと思い出したのが幼少期からいつも一緒にみていたビデオの「ドラミ&ドラえもんズ ロボット学校七不思議」の最後に、ドラえもん・ドラザキッド率いるドラえもんズが「卒業、おめでとう、ドラミちゃん」とお祝いするのだが、そのシーンが真っ先に思い浮かび
「結婚、おめでとう、ドラミちゃん」
と言ってしまった。お姉ちゃんと言うつもりだったのに、ドラミちゃんと言ってしまった。姉でなく、ドラミちゃんの結婚を祝ってしまうほどには気が動転していたのだと思う。

姉は、その半年後に結婚した。
姉の苗字はいとも簡単に変わった。母とわたしと同じ苗字ではなくなった。
嬉しさよりも、寂しさの方が圧倒的に大きかった。
姉は、一生わたしの姉であり、家族であるけれど、苗字が違う。そんなの変だ。
なぜ、わたしたちはこんなに深い絆で結ばれているのに、苗字を変えて生きないといけないのだろうか?わからない。
わたしまで苗字を変えたら、今の苗字で生きるのは母一人になる。
苗字なんて記号のようなものでしかないのかもしれないけれど、
わたしにとっては、大切な家族が消滅してしまう気がしてならないのだ。
子どもを産み落とすのは女性なのに、法律婚では産んだ子どもは基本的には男性の苗字に統一する。話し合いの余地もなしに。
納得いく理由を教えてもらえればわたしは屈することができるかもしれない。「当たり前」とか「常識」とかで片付けないでほしい。きちんと教えてほしい。

スウェーデンには婚姻制度が2種類あり、1つが「結婚」、もう1つが「サンボ」というもので、後者のサンボは法的にも社会的にも結婚と変わらない権利を得ることができるらしい。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/lilico2_jp_5cf73d0be4b01713bed3ba33)
こんな風に、日本でも結婚の選択を朝食バイキングのように簡単に選ぶことができればいいのに、と思う。

正式に事実婚にしたいとは、まだ彼には伝えていない。
なかなか面と向かって言うことができない。その勇気がない。
意を決して伝えて、無下にされたときの絶望を想像すると悪寒がするのだ。
それだけわたしは本気だからだと思う。ちゃんと話し合いたい。

わたしは最期まで母と同じ苗字で生きていたい。
自分の苗字を名乗りたい。
ただそれだけなのに。

こんなに難しくする日本の「結婚」という呪縛のような社会制度に、飲み込まれたくない。考えて抵抗して足掻いて藻掻いて、それでも法律婚をした方が良いとなれば
そうすればいい。
でもまだ足掻いてもない。苗字を守り抜くための茨の道は、これから始まる。

全ては自分の苗字で、自分の人生を全うするためだ。

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