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二の腕の蜘蛛

体んなかで一番痛いのは二の腕の内側なんすよ、と彼は言って、白いシャツの左腕の袖をめくった。手足の長い蜘蛛のタトゥーがそこにはあって、触っていい?と尋ねたら彼は触ってみな、と答えたからわたしは蜘蛛をそっと撫でた。白い腕だった。かわいいヤツだ、と思った。

髪を切るのに吉祥寺に通っていた。
いつもシャンプー係だった新入りの彼は、一年くらい経った頃に「俺、世界を見たいっす、日本出るっす」と言い出した。かわいいヤツだ、と思った。

ほどなく、下北沢のバーに一緒に飲みに行った。
来月からアメリカ行くんでメアド交換してくださいよ、と言われて(当時はLINEとか無かった)受け取ったアドレスのアットマークの前は「fuckingjap」となっていて、いやいや外国行くのにこれヤバくねえの?と聞いたら、俺ガイジンに舐められたくないんで、と彼は答えた。マジでかわいいヤツだな、と思った。

その夜に初めて飲んだ「アラスカ」という名のカクテルでわたしは完全に酩酊して、井の頭線のホームのベンチで崩れ落ちた。線路上にすべてを吐き戻したいのをギリギリで耐えた。蜘蛛はアートの象徴だからタトゥーにしたんすよ俺マジで、と言った彼の言葉が本当なのか適当な思いつきなのかは、わからなかった。

***
アメリカに行った彼は半年後、早々に帰国して練馬の美容院で働きはじめた。帰国の理由はわからないけど、まあ、いろいろうまくいかなかったんだろう。カットモデルやってよ、とfuckingjapからメールが来たから、月に一度、午後8時の約束で練馬まで出かけて行った。わたしの髪を触るとき、二の腕の蜘蛛は彼のシャツからうっすら透けて見えて、それをもう一度触ってみたいと思ったけれどかなわなかった。

しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。……極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

芥川龍之介『蜘蛛の糸』

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