見出し画像

明智光秀の謎④ 見破れない嘘、得意技は耳打ち

①前半生②比叡山焼き討ち③謀略の天才の続きです。

謀略で荒木村重を貶め、波多野一族を滅ぼし、織田家の中で着々と地位を築いていた明智光秀は、虎視眈々と織田信長を討つ準備を整えていきます。

追放された功労者

天正8年(1580年)、信長と本願寺の間で和議が結ばれ、11年続いた戦が終わり、戦の功績による賞罰が行われた。その際、信長は、光秀の丹波平定や秀吉の播磨などでの戦功を称賛した一方で、織田家の家臣団の中で長く筆頭格として扱われてきた佐久間信盛とその息子、信栄には折檻状を与えた。

信盛は、石山本願寺攻略の総指揮を任され、信栄は光秀と共に天王寺城の砦を守る役を務めていた。しかし佐久間父子は、大した功績を立てることもできず、無駄に過ごしていた、と厳しく信長から叱責され、熊野の高野山に追放されたのである。

何か不届きなことを犯したのではない。光秀や秀吉と比べれば、大した事をしていないかもしれないが、織田家に長年功労を立ててきた筆頭家臣が追放を食らうほど、この件で佐久間父子が信長を失望させたとは思い難い。

佐久間父子に対する追放も荒木村重の突然の謀反と同じように、その理由は謎とされている。サイコパスの周囲では、こうした事がよく起こるのである。光秀による謀略が裏で行われていたからだ。

光秀は得意の耳打ちで佐久間父子に関する嘘の悪評を流布し、それを信長に信じさせることに成功していた。

佐久間父子追放の結果、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7か国の与力をつけられていた佐久間信盛軍は、光秀軍の配下になったのではと考えられている。

サイコパスは、

上司または上司の上役にそっと嘘を耳打ちし、空涙を流し、同僚の企画をぶちこわし、…、甘い約束で人を釣り、自分が情報源であることを絶対に悟られないように誤報を流す。(『良心をもたない人たち』)

こうして高野山に追放された佐久間父子は、理不尽な思いを忍びながら余生を送る事になった。そして天正9年(1581年)に父信盛は熊野の奥で病死した。

サイコパスの行動は普通の人とは違う。「まさかこんなことが」「どうしてこんなことが」ということがサイコパスの周辺では起きる。そして自分に降りかかった突然の不幸・不運の背後を理解できず、苦しむのである。その苦しみを見るのがサイコパスの快楽の一つであり、次の野心を満たすうえでの布石ともなっている。

織田軍のナンバーツーに

信長の期待に応え丹波を平定した光秀は、天正8年(1580年)に、以前から領有している近江の滋賀郡5万石と、さらに丹波の国29万石を加えて34万石の大名となった。

天正9年正月の馬揃えでは、総括責任者を務めるなど、光秀は織田軍のナンバーツーと言っていいような位置まで登りつめたのである。

さらに、天正9年の6月2日付で、光秀は18条から成る明智家の軍の規律などを記した『明智光秀軍法』を定めた。その最後に、「石ころのように沈淪していた身上から、信長公に召し出されたうえに、莫大の兵士を預けられた。武勇もなく、武功もない者は、国家の費えと思うので、明智家中の軍法を定めた次第である」と、記述している。

 本能寺の変を起こすちょうど1年前のことである。これを見れば、この時点で、「光秀は、信長の恩恵に感謝し、これを暗殺しようなどという意図の全くなかったことが、立証される(桑田氏)」。しかしそれは、あくまでも、光秀が普通に良心をもった武将であったなら、である。

光秀にとって、この記述は「信長を討つ」意図を、信長に絶対に悟られないための極自然の演技だったのである。

そして天正10年(1582年)を迎え、いよいよその時(本能寺の変)が来ようとしていた。

◆ 続く

参考図書


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?