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明智光秀の謎⑥ 恨みでも野望でもない光秀の正体

明智光秀の謎⑤ 無様な最期」の続きです。

日本史上最大の謎ともされる「本能寺の変」。信長から高く評価されていた光秀はなぜ謀反を起こし、信長を討ったのか。信長に対する怨恨か、天下を取ろうという野望か、それとも黒幕がいたのか、様々な説があるものの、どれも決定的ではない。それだけに多くの人々の関心を集め、多様な議論もされてきた。

怨恨説

最も一般的に流布しているのは、信長による厳しい折檻などで光秀の恨みが募ったから、という「怨恨説」だ。

よく知られている折檻には、本能寺の変の2年前の天正8年(1580年)、指示に従わなかった光秀に信長が激怒し、光秀の髻(もとどり)をつかんで突き飛ばしたうえに、光秀の額を敷居にこすりつけ、光秀が流血した、というものがある。

その他、本能寺の変の数か月前の天正10年(1582年)3月、信長軍が武田軍を滅ぼした後、信州諏訪の法華寺で光秀が「このようなめでたいことはありません。私も年来骨を折った甲斐がありました」と言ったところ、信長が「お前はどこで骨を折ったのか!過言だ!」と言って、光秀の頭を欄干に押し付けた、というのがある。

今でも、上司のパワハラに腹を据えかねた部下が上司に危害を加えるという事件が時々ある。パワハラが問題視され、パワハラに苦しむ人が多い現代の世相を反映してか、この怨恨説は今も結構多くの人たちから支持されているようだ。

信長が光秀をいじめていたという逸話は、上記以外にも、いくつかあるが、どれも後世の雑書によるものであることから、信憑性はほとんどないとされている。

怨恨説に基づくドラマや小説などの創作物が多いのは、視聴者や読者の共感を呼びやすいストーリーとなるからだろうが、史実に基づく根拠は乏しい。

そしてこれらの創作物は、きまって、冷酷非情で独裁的な信長に対して、まじめな知識人の光秀という描き方をしている。従って本能寺の変の動機や背景を考える際、無意識のうちに「乱暴者の信長」「実直な光秀」を前提に、著名な歴史家ですら考察してしまっている場合が多いようだ。

実は多くの一次資料によれば、残酷なのは信長より光秀の方で、信長は強圧的な側面はあるものの、人間味にあふれ、優しい人柄だったということが分かってきている。(以下のブログ参照)

比叡山焼き討ちを主導し、荒木村重を騙し、波多野一族を滅ぼした光秀の残虐性と策略は、ここまで説明してきた通りだ。

史実によれば、光秀が信長を殺そうと思うほどの恨みを抱く理由はない。怨恨説は多くの創作物によってイメージづけられた、実像とはかけ離れた光秀像が根拠となっているのである。

野望説

信長に認められ、ナンバーツーともいえる地位にまで登りつめたものの、以前から主君信長を討って天下取りを目論んでいた光秀は、信長が無防備に本能寺に宿泊していた機を逃さず、信長親子を殺した、というのが「野望説」だ。

これまで説明してきた流れからすれば、光秀の動機はこの野望説に近い。ただ野望説が支持されない理由は、光秀の本能寺の変後の計画性のなさだ。本能寺の変後の無様な光秀の戦いっぷりに野望があったとは到底思えない、というのがこの説が否定される理由だ。この計画性のなさから光秀が突発的にキレて殺したとの考えが擁護されている。

しかし、突発的にしては、謀反を起こすために重臣たちに理解を求め、1万を超す兵をまとめるなど、準備はかなり用意周到に行われている。信長に造反する家臣らを事前に揃えておかなければ、このような行動はとれない。もし突発的な恨みによる行動であれば、これほど抜かりなく謀反をなす事はできない。

従って、信長への忠誠を装いながら、光秀が虎視眈々と信長の命を狙い、信長にとって代わろうとしたのは間違いない。そしてチャンスが訪れたと見るや、一気に実行に移したのである。

ではなぜ、信長を討って、信長にとって代わろうとした光秀が、本能寺の変後、情けないほど計画性がなくずさんだったのだろうか。

ここでカギとなるのはサイコパスの特徴だ。そして光秀がサイコパスであったということだ。これを理解すれば、信長の命を奪うまでは驚くほどの謀略と演技力、計画性がありながら、その後は無計画でみじめな最期を遂げたのか、すべての辻褄が合う。光秀は、まさにサイコパス特有の行動をしていたのである。

地位取りゲームに興じていた光秀

光秀の行動パターンは以下によるサイコパスの特徴に基づいている。

サイコパスは〝勝つ〟こと、支配のための支配を目指して、人びとのあいだでゲームをおこなう。ふつうの人たちは、この動機を頭では理解できても、実際に目にすると、あまりに自分とかけはなれているため、〝見すごす〟ことが多い。サイコパスはたんにゲームのために、自滅的な行動をとりがちだ。(『良心をもたない人たち』)

光秀は友人の細川藤孝をうまく利用し出世して、藤孝を家臣にした。信長の信頼の厚い荒木村重に対しは騙して貶め力を削いで追放した。丹波で大きな影響力を持っていた波多野一族は謀略で皆殺しにした。目障りな家臣団の筆頭、佐久間信盛は、信長に不信感を植え付ける事で追放した。

〝勝つ〟こと、支配のための支配を目指して、人びとの間でひたすらゲームを行ってきたのが、光秀の人生である。そこには天下統一の野望などない。まして戦の時代を終わらせ平和の時代をもたらそう、などといった高尚なビジョンなど頭の片隅にもない。

あるのは、偉そうにしている人を貶める快感、自分より尊敬を集めている人を冒涜の対象に変える快楽である。

光秀の持っていた野心はこうした次元のもので、天下統一、天下泰平などという美しい理想は、人の純粋な心に取り入って騙すための方便にしか過ぎなかった。これがサイコパス光秀の行動原理である。

なにより気分がいいのは、自分より頭が良く、教育程度が高く、階級が上で、魅力があり、人気が高く、人格的にすぐれた相手を打ち負かすことだ。これは愉快なだけではない。存在にかかわる復讐もはたせる。(『良心を持たない人たち』)

あなたは上司または上司の上役にそっと嘘を耳打ちし、空涙を流し、同僚の企画をぶち壊し、・・・甘い約束で人を釣り、自分が情報源であることを絶対にさとられないように誤報を流す。(『良心を持たない人たち』)

従って、本能寺の変を起こし信長を亡き者にするまでは、まさに用意周到、虎視眈々と謀略と演技で、自分より魅力があり、人気が高く、人格的にすぐれた相手を打ち負かしてきた。いかに信長にとって代わるかというゲームに興じてきたのである。

そして信長を討つゲームを終え、次のゲームを始めようとしたものの、想定外の事が立て続けに起きてしまった。

藤孝を仲間にしようと思ったが、光秀に既にうさん臭さを感じていた藤孝は、光秀が権勢をほしいままにする可能性を感じながらも、光秀に与することなく出家の道を選んだのである。

秀吉も光秀のうさん臭さに薄々気づいていた。だから光秀謀反の情報を知るやすぐに光秀を討つ行動に移した。信長に対する純粋な忠誠心は秀吉に常人の域を超えた力をも与えた。

いくら戦国の世とはいえ、力や位置だけで人は従ってこない。忠義の精神は武将たちが、下克上の時代とはいえ大切にしていたものだ。良心を持たない光秀にはそれが分からなかった。

まとめ

本能寺の変の動機は恨みなどではない。天下統一の野望でもない。恨みを持つはずのない光秀がなぜ謀反を起こしたのか、天下統一の気もない光秀がどうして信長を討ったのか、今に至るまで多くの人には理解できず、謎のままだったのである。

しかし光秀がサイコパスであったと見れば全ての謎は解けるし、辻褄はあう。良心を持つ人には理解し難いが、光秀は自分より魅力があり、人気が高く、人格的にすぐれた相手を打ち負かすゲームに興じて、彼らに勝つ快楽にふける人生を送っていただけだったのである。

ゲームに勝てないと見るや逃げ回り、山賊にあっけなく首を取られた光秀の最期に、武士の美学のかけらもなかったのは当然のことである。

◆ 続く

参考図書


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