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明智光秀の謎⑤ 忠義無き者の無様な最期

明智光秀の謎①の続きです。

前回はサイコパスの特性を知ることで解ける光秀の謀略の数々を見てきました。今回はいよいよ本能寺の変に迫ります。

謀反を全く予期していなかった信長

天正10年(1582年)、いよいよその時が来ようとしていた。この年の5月15日、安土城の信長のもとへ徳川家康が訪れた。そこでちょうど非番だった光秀が、家康一行を3日間にわたってもてなすこととなった。

同じ5月15日、備中高松城を攻めていた秀吉は、毛利の大軍が来るということで信長に援軍を願う手紙を届けていた。そこで、信長は自ら出馬を決意して、光秀には家康へのおもてなしが終わり次第、備中へ出陣するよう命じた。

一方、このころ信長は小姓衆のみを率いて上洛し、定宿であった本能寺で宿泊する予定になっていた。息子の織田信忠も2千人の旗本衆と共に妙覚寺で宿泊することになっていた。また柴田勝家は越中で上杉景勝と、滝川一益は上野で北条氏政と、秀吉は備中で毛利氏と対峙し、信長に忠誠を誓う有力武将たちはみな遠方にいた。

光秀はこの時、信長を討つ千載一遇のチャンスと思ったことは間違いない。亀山城で準備を整え、一部の重臣らに信長を討つ意向を伝えた。

重臣らは、日ごろから信長の残虐性や冷酷非情な家臣に対する扱いを、光秀からそれとなく聞かされていたので、信長に対する不信感が植え付けられていた。そして光秀は公卿の吉田兼見と友人である事、かつて足利義昭将軍に使えていたという話を家臣たちにちらつかせながら、あたかも自分が朝廷や将軍と通じていて信頼を置かれ、信長がいなくなった時には、自分が義昭将軍の側近となり京を守ると、控えめな雰囲気を保ちながら、うそぶいていたのである。

サイコパスが、

自分の目的のために普通の人びとの心をとらえようとする場合、たいていまず君たちこそよりよい世界をつくりだす善なる人びとだと呼びかけ、自分の攻撃的計画にしたがえば、それが実現できると訴える(『良心をもたない人たち』)

側近たちは光秀の信長を討つという意図に驚きながらも納得し、悪質な信長の後には、光秀が朝廷と将軍からの信頼を得て、天下統一を果たすのだろうと思ってしまっていた。

光秀は6月1日、1万3千の軍勢を率いて亀山城を出て信長がいる本能寺へと向かった。

6月2日の早朝、光秀軍は本能寺を取り囲み攻撃を開始。信長は襲撃を全く予期していなかった。

さすがはサイコパス光秀、これだけ大胆な謀反の計画を、信長に全く気付かれることなく実行に移すことができたのである。

信長は過去にも、身内の織田信友、弟の信勝、同盟関係にあった浅井長政などの謀反にあい、命を狙われたことがる。しかし、いずれも事前に察知し、難を逃れ返り討ちにしている。これほどまでに叛逆を企てる者に対して敏感だった信長が、光秀の謀反の意図には全く気付いていなかった。光秀は常日頃から信長に忠誠を示していたので、信長は不審な思いを光秀から少しも感じことがなかったからだ。

それどころか、信長は本能寺襲撃の知らせを受けた当初は「信忠の謀反か?」と思ったということだ。(以下のブログ参照)

もしかすると、信長は最期まで誰の謀反から分からないままだったかもしれない。いずれにしても、光秀が謀反を起こすなど、露ほども思っていなかったのは確かである。

予期していなかった襲撃に未明という時間。不意打ちを食らったうえに、大軍を前にしては、さすがの名将信長といえども成す術がなかった。まずは女性たちを逃がし、奮戦はしたものの、最期は自ら火を放ち自害した。

本能寺で起きたことの知らせを受けた信忠は、一度は本能寺に向かおうとしたものの、光秀の大軍を相手にまともに戦っても勝てないと判断し、二条城にたてこもることにした。しかし光秀軍に包囲され攻撃を受け、応戦はしたものの勝ち目はなく、信忠もまた火を放ち自刃した。

三日天下

光秀はその日のうちに、秀吉と備中高松城で戦っている毛利の将小早川隆景に密書をつかわしたという。

その内容は「備中で乱暴を働く羽柴秀吉と戦う毛利一族の足利義昭将軍への忠烈は素晴らしい。私、光秀は信長に憤りを抱き、義昭将軍の願いに応えて、本能寺で信長父子を殺しましたので、よろしくお願いします」というものだ。

光秀は自らを義昭将軍の忠臣であると装い、毛利氏を味方につけ、秀吉をも討とうとしていた。しかしこの密書を届けに行った密使が秀吉軍に見つかり、密書の内容を秀吉が知ることとなった。以前から光秀にうさん臭さを感じていた秀吉は「やはり光秀はとんでもない奴だった」と確信するとともに、主君信長を守れなかった自分を悔いた。

そして信長を討った非道な光秀に対する怒りに燃えた秀吉は、まず毛利氏と和睦し、主君の敵討ちのために、全軍をまとめて急いで京に向かった。世にいう「中国大返し」である。

一方、この頃、光秀は、わずかな家臣と共に境の見物をしていた家康をも討とうとした。境の見物も光秀が勧めたものだ。本能寺の変がそうであったように、相手が無防備な時を狙ったり、相手を無防備にして討つという光秀らしい卑劣な謀略によりものだ。光秀はこの時、家康を討ち取った者には、永代の恩賞を与えるとのお触れを出していた。

光秀の謀反を知り、自分の命も狙われていることも知った家康は、光秀の大軍と戦うのは無理と判断し、命からがら岡崎に帰城した。

光秀は6月5日には信長の安土城を占領、城内の金銀財宝を我が物にし、歓心を得ようと家臣らに配った。続いて近江領内にある秀吉の長浜城、丹羽長秀の佐和山上をも占拠した。

6月7日には朝廷の使者として吉田兼見が京都から安土城に来て、今回の謀反で京都にはなにも差し障りがないように取り計らってほしい、という天皇からの命令を伝えた。朝廷としては信長と続いていた適度な関係が、謀反者の光秀によって乱されては困るのでとった行動であり、光秀の謀反を肯定する意図があったわけではない。しかし、光秀はあたかも自分が朝廷から認められていると見せかけ、周囲を騙すために利用するつもりだった。

これに先立つ6月3日、信長を討った翌日に、光秀は細川藤孝・忠興父子に味方になることを求める手紙を送り届けた。細川父子は、秀吉と同じく、光秀の卑劣な魂胆に怒りを覚えると同時に、信長の死を悼み、出家することにした。光秀は細川家には自身の娘・明智たま(細川ガラシャ)が嫁いでいるし、藤孝をうまく取り込んでいるつもりでいたので、見方になってくれるものと思っていた。

光秀はさらに6月9日付で、細川家へ、「摂津と若狭の国を与えるから味方になってくれ」「近国を平定したら私は引退するから、その後はあなたにお任せする」との手紙を届けた。

光秀との付き合いが長い藤孝は、薄々光秀の残酷さ、うさん臭さを感じていた。こんな光秀の言い分を信じることなどできない。

そもそも忠義に厚い藤孝が、主君信長を討った光秀の味方などするはずなどない。忠義を装う演技には長けていても、忠義の心を知らない光秀には、藤孝の行動は想定外だった。おいしい餌を与えればついてくるものと思っていたからだ。

光秀は細川家に嫁いだ自分の娘のたま(細川ガラシャ)からも、信長への叛逆を非難された。娘も父の日ごろの陰謀めいた行動に不信感を持っていたのである。

秀吉襲来の情報が光秀に届いたのは6月10日。光秀にとって秀吉がこんなにも早く引き返してくるのは想定外だった。

光秀は急いで態勢を整え、6月13日、山崎の地で秀吉軍と対峙した。「山崎の戦い」である。

主君の敵討ちに燃える秀吉軍と比べ、急ごしらえの光秀軍の士気は低い。そのうえ秀吉軍4万人に対して、光秀軍は、その半分にも満たない約1万6千人程度。

戦の結果は明らかだった。光秀軍は惨敗。光秀自身は密かに坂本城を目指し、逃げ隠れようとしたが、その途中の藪の中で農民の竹槍で刺し殺された。卑劣な光秀らしい最期だった。その後、光秀の首は晒されたという。

光秀の天下は12日、世にいう「3日天下」で惨めな形で終幕した。

良心をもたない者の惨めな最期

女たちを逃して奮戦し、もう敵わないとなった時、敵に首を取られたり晒されたりすることがないよう、自ら火を放ち自害した信長。戦の巻き添えになるべきでない者たちを助け、武士の義を貫いた信長の最期だった。

一方、家臣を置いて密かに逃げ、自害する事も出来ずに、敵の刀で討ち取られる事はなかったものの、無様に山賊に殺され、首を晒され、恥をさらけ出した光秀。

主君の忠義に燃えて凄まじい勢いで引き返し、主君の敵討ちを果たした秀吉。

夜襲に不意打ち、数多くの謀略と虐殺を働いてきた光秀。

その結末は、まさに天誅が下ったという表現が当てはまる。

良心がない光秀は信長を見事に欺き、一旦は謀反を成功させたかに見えた。

しかし光秀には藤孝の誠意からもたらされる人望、農民の出から信長に重用された事を感謝する秀吉の忠義心など、損得を超えた人の行動の強さを理解できなかった。

光秀にあったのは魅力ある人間に見せかける芝居、感謝したフリをし、忠義を持ったフリをする演技であって、いずれも人を欺くために使うものだった。

光秀が通りすがりの山賊に無残に殺されたのは、人の持つ優しさ、感謝、忠義心、愛を利用し、多くの人を犠牲にしてきた光秀が、心からの優しさ、感謝、忠義、愛の力に完敗した瞬間でもあった。

◆ 続く

参考図書


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