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日本語は好きなのに活字を読むのが苦手という話

本を読むことは苦手です。そもそも活字が苦手です。紙をめくる動作がただの作業になってしまいます。

一か月ほど前に書いた、4000文字越えの無駄に長い自己紹介の記事から、この47文字を抜粋してきた。

念の為、その自己紹介の記事のリンクを貼っておくが、読まなくていい。
本当に読まなくていい。「そこまで見たら読んでみたくなるじゃん!」とかを狙ってるわけでもない。


そうそう、私は文字がズラズラっと印刷された紙が何枚も束ねられて装丁されているもの、通称「本」を読むことが得意ではない。

読書嫌いなのは小学生の頃から変わらない。
「本が友達」な人生を未だに私は知らないし、今後知る予定もない。

記憶を遡れば、小学校が好きだった私にとって、数少ない嫌いなことといえば、読書感想文を書かされることと、雨の日に運動場での体育が潰れることだった。

読書感想文を書くためには、本を読まなければならない。
のちに感想文にすることを想定しながら本を読むことの意義が当時の僕には分からなかった(今もよく分かっていない)。
それに加えて、読書感想文を書くために、親から「本を読みなさい」と口うるさく言われてきたことも読書嫌いになった原因だと思っている。

大人になっても読書が好きな人は、小さい頃から時間があれば本を読んでいたとか、本が好きすぎて逆に親から規制されていたとか聞いたことがある。僕は見事にその逆である。

小さい頃から時間(スキ)があれば本を読んでるふりして寝ていたし、本を読まなさすぎて本を読まなければご飯が出なかった日もあるくらいだ。

こうやって読書の本来の意義からひん曲がったような読書義務を受けたこと、読書を面白いことだと知る前に「親の機嫌を保つための偽善」という思考回路が備られてしまったことで読書と仲良くなれない人になった。もっと具体的に言えば、活字を目で追うことが苦手になった。

それでも、母国語が日本語であることに誇りを感じるくらいに、日本語に触れることが年を重ねるにつれて好きになっている。
もっと日本語の達者になりたいとも思う。ただそのためには他人の脳もしくは口から出た日本語に触れる必要があり、その一つのツールが読書のはずだ。

私の場合、紙に書かれた活字の集合体は苦手だが、端末で目にする文字にはこれまでの読書嫌いは悪さをしなくなる。

読書は苦手だけど綺麗な日本語に触れたい私にとって、日本語に触れるツールが紙だけに留まらない今の時代は非常に有難いのだ。

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