見出し画像

誰かといるときこそ写真を撮った方が良いって話

先日、高校時代の友人2人と地元で遊ぶ機会を作った。

その友人2人とは、高校3年生のときに同じクラスになり、校内では基本ずっと一緒に行動をしていた。休み時間や移動教室、図書館での自習、文化祭準備…どれも共に過ごした仲間で、あの日から4年経った今でも定期的に顔を合わせている。

その日も、彼らと他愛もない会話をしていた。
偶然にも3人とも理系大学生で来年から大学院へ進むため、生活スタイルに大幅な相違はなく、学生生活の話についていけないなんてことも滅多にない。

その日のメインプランを終え、とあるカフェでくつろいでいた時、高校3年生の時の話で盛り上がった。
クラスメイトの当時のあだ名を思い出したり、担任の先生のクセを真似したり、各科目の先生の印象を語り合ったり、クラスLINEのトーク履歴を遡ったり。

その中でも、当時撮った写真を見せ合って「この時の〇〇若ッ!」とか「この後△△したんだよね」とか言って懐かしんでいた時間がすごく印象深い。

遠足の集合写真や、友人が文化祭で使う大道具を製作している写真、席替えをした後の新しい座席表の写真、友人が同級生の女の子といい感じになっていた瞬間を盗撮した写真、担任の先生の汚い板書の写真、休み時間中にこっちを見ながら爆睡している友人の写真など、見せ合った写真の数は手と足の指の総数では到底収まらない。

その写真の中には、この友人と集まる機会がなければ今後の人生で思い出すこともなかったであろう当時の出来事や人物が映っていた。

その時にふと我に返って改めて思ったのだ。

誰かといるときこそ写真(動画)を撮るべきだと。

自分一人でいるときに見た景色は、思い出を懐かしむときも自分一人だ。
写真(動画)を見せて他人から共感を得ることができても、思い出を共有することはできない。(撮る必要がないわけではない。)

その反面、誰かといるときに見た風景は、自分がその誰かと親しければ親しいほど懐古の種になり、大きな価値を持つ。そして時には笑いになり、時には涙になる。

忘却を繰り返す人間にとって、写真や動画は人生のバックアップツールだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?