ポテサラ・ダイバーシティ

ポテトサラダが好きです。

ふわふわのじゃがいも、しっとりした玉ねぎ、コクを出すベーコンやハム。にんじんや枝豆、ゆで卵など作り手やお店によって違う具材が入っているのも魅力だと思います。

ですが、一つだけ許せない食材があります。

きゅうりです。


シャキシャキのきゅうりが、ポテトサラダのしっとりふわふわ食感を損なっているように感じます。

他の具材はじゃがいもに馴染んでいるのに、きゅうりだけは食感のアピールが強いです。

これではポテトサラダ全体が変わってきてしまいます。


こんなことを言っていますが、きゅうりが嫌いなわけではありません。

むしろ好きで、小学1年生のとき「すきなたべもの」の欄に「きゅうり」と書いたほどです。

今でもきゅうりの浅漬けなどは大好物ですので、極端な話ですが地球から追放したいとは微塵も思っていません。


きゅうりのシャキシャキとした食感を認めたら、プニプニのグミも、マヨネーズと合わなそうな大福も、その辺の石でも、何でもアリになってしまいます。


と、ここで我に返りました。

私のこの考え方、差別構造と同じだ。


少数派だから、異端(とされるもの)だからと排除しようというのは差別に他なりません。

そもそも、私は数える程しかきゅうり入りのポテサラを食べたことがありません。

もしかしたら全体を損なうどころか良いアクセントとなるかもしれません。

無知は時に偏見や差別を生みます。


「嫌いではない」は“差別するつもりはない”という言い分に、「浅漬けは好き」は“I have black friends”論に似ています。

「差別じゃないけど」と言いながら差別発言をする行為が、一番タチが悪いと思っています。

それと同じような発言をしていたとは情けない限りです。


Aを認めたらBやCはどうなるんだ、と論点がずらされていくのをよく見ます。

その他のものも大切かもしれませんが、まずは今議題となっているきゅうりについて議論(私一人ですが)すべきです。

また、この論法は、差別に限らず問題を矮小化するときにも使われています。


差別は良くないとか、多様性がある方が楽しいとか、日々何となく思っていますが、まずは自分の内なる差別意識と向き合わなくてはいけないと反省しました。

とりあえずきゅうりが入ったポテトサラダをもう一度食べるところから始めていこうと思います。

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