見出し画像

正月にいる

正月が好きだ。
いつもよりたくさん食べて、長時間テレビを見て、頻繁に横になる。その量や時間が普段とさして変わらないと言われれば返す言葉は見つからないが、怠惰なりにも覚える罪悪感を「正月だから」という魔法の言葉で浄化することができるのである。
 
 
元日、お笑いの特番がCMに入ったタイミングでトイレに立つ。リビングから漏れるテレビの音や家族の声が徐々に小さくなっていく。
 
静寂の中で便座に腰を下ろすと、ふと、正月にいる、という感覚になる。
 
「正月だ」でも「正月が来た」でもなく、「正月にいる」なのだ。
 
 
今年も大好きな正月を迎えられたことを喜ばしく思う心に、何かをやり残したまま年を越し、過ぎた年に何かを置いてきてしまったのではないかという焦燥感が影を落とす。
それは、本来自分は正月を迎えられる立場にないのではないだろうかという不安に変わっていく。
 
しかし、正月の私は一味違う。普段より少々ポジティブで、自己受容が少々上手い。
どのように振る舞おうが新年及び正月はやってくる。さらに誰もがそれを享受する権利を有している。このように考えることができるのだ。
 
正月への熱い想いを土台として、その上に後ろめたさと開き直りが重なり、後者の比重が大きくなったとき、「正月にいる」と感じる。その後程なくしてリビングに戻れば、不安も葛藤も忘れて芸人のネタに声を出して笑う。
 

正月を神格化しすぎている節はあるかもしれない。三が日を過ぎると(というか、3日の午後くらいには)最高の時間が終わってしまうのだ、次の正月まで1年もあるのだと鬱々とした気分になる。
「楽しかったからまた1年頑張ろう」と思える前向きな性格であったらどれほど生きやすかったことだろう。
 
 
そして、何も考えず特権に胡座をかいた罪悪感に苛まれ始めるのも同時期である。
正月を心待ちにできる特権、自宅で家族と祝える特権、そして今年は戦争や災害の被害を画面の外から見る特権――無論、これまでも平生とはいえない状態で新年を迎える地域はあったのだが。
 
私には何ができるのか分からない。アルバイトの収入しかないため高額な寄付はできないし(雀の涙とすら言えないほどの寄付はしたが)、身体も強くないため直接被災地に赴くことも難しい。
 
最低限、心身を壊さない程度に自分の特権性に自覚的になり、できることを探していこうと思う。
 
 
日付や暦という人為的な区分けに振り回される(もはや自ら縛られにいく)のは冷静に考えるとなかなかに滑稽だが、この3日間、私は確かに2024年の正月にいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?