【読書】宮尾登美子『松風の家(下)』

(上巻の感想はこちら

下巻では少しずつ隆盛を取り戻していく後之伴家の姿が描かれる。

物語の後半には、突如、仙台に暮らす辰寿という女性の茶道家の物語が並行して進む。

仙台藩の士族たちが、明治以後ようやくそれぞれの道を選んで立ち直ったのは十年以降だといわれている。

松風の家(下)

江戸から明治への移行期について歴史の授業で習った時は、それが如何ようだったかまったく想像できていなかった。だが、よくよく考えれば全ての「白」が「黒」に変わるくらいの出来事だったと思う。天変地異といってもいいだろう。そりゃ、白が黒になったことに気づくだけで10年かかった人もいたにちがいない。

令和の日本だって茹でガエル状態だと言われて久しいが、どれくらい煮えくりかえっているのか、渦中の私たちに分析することは難しい。振り返れるくらい遠くまできてようやく「あのとき黒に変わっていたんだな」と気付けるものだし、それが「歴史」というのものなのだと思う。

これが明治の十年代のころではなかったかと思われるが、世間にはご一新の波をかぶって落ちぶれる人、罪人となるひと、或いは身分の変動に馴れぬ人、など、さまざまの人生を生きるひとが溢れていたが、頼ってくるひとを可奈はすべてこの料亭内にかばい、助け、侠婦と慕われたという。

松風の家(下)

渦中におけるこうした辰寿の姉、可奈の生き方はなかなかできることではない。のちに登場する辰寿の娘である紗代子が、どういう芯をもった家系の女性であるかが窺い知れる。

さらに、仙台人の気風についても次のように語られる。

仙台人は忍耐強く、人にめったに腹の底を明かさないといわれているが、それだけに燃えさかる炎は皆ひとしく胸の奥深く秘めているように見うけられ、加藤家のひとたちはとりわけその典型であったと思われる。

松風の家(下)

なるほど、そうなのか。
加藤家の娘、紗代はのちに十四代の妻となる人だ。嫁入り当初、文化風習の違いに苦労する場面が描かれるが、おそらく逆もしかりだったと思う。

私は大阪出身。社会人となり東京で働くまで、東北出身の人に出会ったことがなかった。東北人からすれば関西の手前に東京があるのだから、よほどの理由がない限り東京で留まるだろう。当然だ。それゆえ関西人は東北人に馴染みが少ない。21世紀でさえそんな距離感なのだから、明治初期なら東北人がどれだけ奇異な存在であったか想像に難くない。

そんな紗代子のことを、のちに由良子が温かく讃えるシーンは胸に刺さる。

「私が外に出る決心ついたんは、紗代子さんがよう出来るおひとや、と見極めついたためやとはいえますなあ。
あのひとは、そやな、どう例えたらよろしおすやろ。うちの家の女には昔から誰も持合わしてない、生れつきの愛嬌ていいますか、人受けするもん身につけてます。挨拶の言葉もゆき届いてるし、人への心付けも気前ようぱっぱっと弾んであげてる。
これは仙台の生れのせいか、それとも辰寿さんのお躾のせいか判りまへんけど、これからは紗代子さん中心でこの家の奥は十分にやっていける思います。いまから先、もしやまた以前のような傾きがやってきても、紗代子さんならちょっともくよくよせず、先に立って皆を励ましてくれはることですやろ。

松風の家(下)

由良子という人の、懐の深さ、まなざしの厳しさと優しさがよくわかる。

ところで、宮尾登美子先生の文章が本当にすごい!
ということも記しておきたい。
流麗でいて鋭利な文章に終始惚れ惚れしながら読んでいたが、特に後半の章の冒頭がすばらしかった。

紗代子は、仙台で生まれ育った快活で聡明な若い女性。郷里に愛する人がいたが、さまざまな事情で想いは遂げられず、しばらく失恋に苦しむ。のちに十四代の宗匠の妻となるのだが、その少し前の時期の描写が下記だ。

紗代子が大人たちから受けるほめ言葉のなかに、「機転の利く子」と並んで、「おぼえのよい子」というのがある。
年月日時刻の記憶、人の顔と言葉をおぼえること、見聞きしたすべてを自分のものとして取込む能力などとくにすぐれていれば、家中の者から、
「紗代さ話しっとけば安心」
とおぼえ書き代わりに頼られるが、逆にいえば、忘れ去ってしまうことができないために、自分自身いつまでも苦しむという辛さもつきまとう。
大正五年の夏の出来事について、紗代子はとりわけ鮮明に脳裏に刻みつけており、それは、その上にどれだけの年月がたたみ重なっても、決して消すことはできないものであった。

松風の家(下)

短いセンテンスで複数の方向に向かって奥行きを感じる文章に驚愕。
紗代子の人となりと置かれた境遇。そしてこれからこの章で綴られる哀しい結末を暗示させる見事な導入に一気に引き込まれて「宮尾登美子先生、天才じゃん…!」(周知の事実)。

紗代子の仙台での恋する様子も可愛らしくて印象に残っている。片想いの相手とうれしいできごとがあった時の帰り道の心情がこんなふうに描かれる。

なんとうれしいこと、うれしいこと、私の虹はやっぱり消えはしなかった、あちらとこちらにしっかり橋渡ししてくれていたのだと思うと、この喜びを道端の草にも石ころにも分かち与えたいほど、心が大きくふくらんで来る。

松風の家(下)

「道端の草にも石ころにも分かち与えたい」って! 私の中にもわずかに残る乙女が「わかりみしかない」と申しております…!

恋をした時の心弾む瑞々しい気持ちを表現に共感する一方、結婚後の由良子が、夫である不秀に対して抱くしみじみとした充足感もまた、わかりみしかないのであります。

馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、とはまことに的を射た諺であって、添うてみれば夫としての不秀は、由良子にとって申し分なく有難く、また頼もしい人であった。
(中略)
由良子は、夫婦てええもんやなあ、と日が経つにつれて思うようになり、まるで冬日の日向にぬくもっているようや、としみじみ感じている。こんな心地のなかで思えば、いままでこの家で過ごしてきた少女時代はいかにも寒く冷たく、よくも我慢ができたもの、とまで考えたりする。

松風の家(上)

そんなしあわせな時期も長くはなかった由良子。物語の終盤で綴られる彼女のひとり言のシーンも含蓄がある。

このひととはよくよく深い縁で結ばれてたんやなあ、とほとほと思い、血もつながらぬのに母娘として四十年とうとう一言も、
「お前はほんまの子やない」
という告白も聞かず、互いに騙し騙されたまま別れてしまったと思った。
このことは、号泣していてもふとおかしく、いまは家のうちに一片の位牌となっていまった猶子に向って、
「母さま、あの世で閻魔さんに、嘘吐いてたもんは舌抜くていわれても、ほんまのことで通しとおくれやす。あとから私が行て、照明したげまっさかい」
などと呟いている。

松風の家(下)

酸いも甘いも、というか、もはやほぼ辛酸の人生であったろうふたりの人生の悲哀が詰まっていて胸が痛くなる。

中でも「号泣していてもふとおかしく」という表現がたまらない。かのチャップリンの名言、「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」そのままではないか…!

そして、由良子はあれだけ縛られてきた「家」を出て、鞍馬口で余生を過ごす。

大正十五年一月八日、鞍馬口へ引越した北一家のその後は、十年ののち、五十五歳で盛行が亡くなり、隅倉由良子は昭和十九年まで生き、一子克一に看取られて六十九歳でその生涯を閉じた。京都帝国大学法学部を卒業し、弁護士となった克一が、由良子の亡骸を改めたところ、肌身につけていた古い守袋が出て来、それには己が手で最期を看取った家族の戒名を列記してあり、少し話して、寿峰院松操妙伊大姉、生母いよ、と記してあったという。(完)

松風の家(下)

この淡々と事実のみを記した最後のセンテンスに、最後の最後まで心をつかまれた。思わず、由良子の次の言葉を重ね合わせてしまう。

幼い頃からこの家に育ち、死んだ数々のひとの歴史を見、聞きして育てば、年を重ねるにしたがい、判ってくることはいろいろある。遠い昔はさておき、自分がもの心ついてからも、祖母の遺言、恭又斎の隠居、生前いよの生涯、舜二郎の出生、と不秀に明かしてもらった不思議な話はたくさんあり、また自ら了簡して腹のなかへ呑みくだしてしまった出来事には女子仕糸の子の父親や、そして盛行の行状などがある。いずれも月日が経てば歴史のはざまに消えてゆくべきもので、この家は御祖代々、そのようにして大筋のところ、何の懸念もなく続いて来たのだという納得がえできている。
後年、いく代かのちのひとたちが、この自分、即ち伴由良子について知りたいと思ったとき、戸籍上では父恭又斎、母猶子の長女として出生、十四歳のとき隅倉家の養女となり、以来独身のまま生涯を終った、ということだけしか読み取れず、或いは縁故を辿って調べるにしても、直系以外は漠とした彼方にかすみ去るものと思われ、わずかに、十三代家元の妹として、裏方の仕事を手伝っていたひと、というくらいの口伝しか残らないのではなかろうかと、由良子には考えられる。それで、格別の不足もなく、従ってこのまま、盛行と二人の子供との四人でことさらに、新家族を主張しないでもよく、極めて自然にいままでどおりの暮しを続けられるように思えるのであった。

松風の家(下)

由良子をして「十三代家元の妹として、裏方の仕事を手伝っていたひと」としか残らないのが史実というものなのだ。 

ただ、由良子に限ったことではなく、小市民の私も含めた、これまでに地球に生まれ、生きた動物すべてに言えることではないか。

事実だけを書き出しても物語は立ち上がりづらいが、その行間には幾千もの物語がある。誰かとわかちあった物語もあれば、本人のみが知っている物語もある。忘れてしまった物語もたくさんあるだろうし、視点が変われば別の物語も立ち上がってくるはずだ。

歴史小説とは、作者がその行間を読み解き、解釈し、あるひとつの「物語」として紡ぎ出したものではないだろうか。

そうであったかもしれないし、あるいは、そうでなかったかもしれない。

答え合わせは誰にもできないが、宮尾登美子さんの描く物語には、茶道の凄みが存分に詰まっていた。茶道に生きた人たちの健気で懸命な想いが苦しいほどに溢れていた。

「月日が経てば歴史のはざまに消えてゆくべきもの」を丁寧に掬い取り、美しい文章で紡いでくださった宮尾登美子さんに感謝。そして今、茶の道の最後尾を楽しく歩ませてもらっていることにも深い感謝の気持ちが湧き上がってくる。

恭又斎の最後の茶事の会記の写しを眺めながら父恭又斎の選んだ道具のひとつひとつに、やはり由良子はさまざま思うことがあった。

松風の家(下)

茶の道の道中でいくつもの思い出をつくり、見識を深め、いつか由良子のような境地で会記を振り返れるくらいになれたらいいなと思う。


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