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朝はいつもカレーライスだった 『青い絨毯』 坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1955年 〈昭和30〉

坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1906年〈明治39年〉10月20日 - 1955年〈昭和30年〉2月17日

『青い絨毯』 1955年 〈昭和30〉

坂口安吾の無名時代に同人雑誌の編集室として集った家は、芥川龍之介の自殺を遂げた最期の自宅であったらしい。 その家を〈死の家〉と印象していた坂口の記憶をつづった作品で、その家に来た友人たちのことから、京都にさみしく下宿し、ひとさみく暮らしたころ出会ったひとなどを思い出し、やはりここでもまた、印象的に長島萃(ながしまあつむ)を思い出している。しかし、その家へ、長島萃は一度しか訪ねきていないにもかかわらずに。

"私はこの部屋へ通ふのが、暗くて、実に、いやだつた。私は「死の家」とよんでゐたが、あゝ又、あの陰鬱な部屋に坐るのか、と思ふ。歩く足まで重くなるのだ。私は呪つた。芥川龍之介を憎んだ。然し、私は知つてゐたのだ。暗いのは、もとより、あるじの自殺のせゐではないのだ、と。ジュウタンの色のせゐでもなければ、葛巻のせゐでもなかつた。要するに、芥川家が暗いわけではなかつたのだ。私の年齢が暗かつた。私の青春が暗かつたのだ。
 青春は暗いものだ。"

坂口安吾『暗い青春』 1947年〈昭和22〉6月1日発行「潮流 第二巻第五号」潮流社 より


葛巻義敏 ( くずまきよしとし ) :芥川龍之介の甥。坂口の同人誌の共同編集者。 1909年〈 明治42年〉 - 1985年〈昭和60年〉12月16日

芥川龍之介の死:1927年〈昭和2年〉7月24日

“三人目は長島萃 ( あつむ ) であつた。
 彼にとつては、私だけが、唯一の友達であつたやうだ。他の誰とも親しい交りをほつしてゐないやうだつた。文学を志す青年に、芥川龍之介の自殺した家が珍しくない筈はない。彼は然し、さういふ興味にテンタンで、雰囲気的なものなどに惹かれることのない気質のやうで、この家を訪ねたことは一度だけ、たしか、さういふ話である。
 彼はよく自殺して、しくじつた。”

暗い青春』坂口安吾 1947年〈昭和22〉より

思い出している … というのは、ちょっとピントがずれている推察で、ヒッパリ出していると感じるべきかもしれない。記憶のなかの若い自分の主観で見たその家と、同世代人と、自分との差異はどうだったか今の自分の分析で、あいつならこういう態度だったダロウカとして選ばれている。

坂口安吾篠笹の陰の顔』( しのざさのかげのかお ) では高木として長島萃と家族と坂口安吾が描かれている。

”神田のアテネ・フランセといふ所で仏蘭西語を習つてゐるとき、十年以上昔であるが、高木といふ語学の達者な男を知つた。

 同じ組に詩人の菱山修三がゐて、これは間もなく横浜税関の検閲係になつて仏蘭西語を日々の友にしてゐたが、同じ語学が達者なのでも高木は又別で、秀才達が文法をねぢふせたり、習慣の相違や単語を一々克明に退治して苦闘のあとをとどめてゐるのに、高木にはその障壁がなくて、子供が母国語を身につけるやうな自在さがあつた。

 高木と私は殊のほか仲良くなつて、哲学の先生に頼んで特別の講読をしてもらつたり、色々の本を一緒に読んだ。”

篠笹の陰の顔』 発表年: 1940年〈昭和15〉4月1日「若草 第一六巻第四号」より


長島萃
( ながしまあつむ ) = 長島義雄 ( よしお ) 陰謀政治家 長島隆二の庶子
?年?月?日 - 昭和 9 年 1 月 1 日 午前 0 時 05 分

きくよむ文学

青い絨毯』1955年〈昭和30〉

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