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友人の家族の事情 『篠笹の陰の顔』 坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1955年 〈昭和30〉

坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1906年〈明治39年〉10月20日 - 1955年〈昭和30年〉2月17日

長島萃 ( ながしまあつむ ) = 長島義雄 ( よしお ) 陰謀政治家 長島隆二の庶子
?年?月?日 - 昭和 9 年 1 月 1 日 午前 0 時 05 分

死のあとさき

青い絨毯』 1955年 〈昭和30〉
坂口安吾の無名時代に同人雑誌の編集室として集った家は、芥川龍之介の自殺を遂げた最期の自宅であったらしい。 その家を〈死の家〉と印象していた坂口の記憶をつづった作品で、その家に来た友人たちのことから、京都にさみしく下宿し、ひとさみく暮らしたころ出会ったひとなどを思い出し、やはりここでもまた、印象的に長島萃(ながしまあつむ)を思い出している。しかし、その家へ、長島萃は一度しか訪ねきていないにもかかわらずに。

葛巻義敏 ( くずまきよしとし ) :芥川龍之介の甥。坂口の同人誌の共同編集者。 1909年〈 明治42年〉 - 1985年〈昭和60年〉12月16日

芥川龍之介の死:1927年〈昭和2年〉7月24日

思い出している … というのは、ちょっとピントがずれている推察で、ヒッパリ出していると感じるべきかもしれない。記憶のなかの若い自分の主観で見たその家と、同世代人と、自分との差異はどうだったか今の自分の分析で、あいつならこういう態度だったダロウカとして選ばれている。

朝はいつもカレーライスだった 『青い絨毯』 坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1955年 〈昭和30〉

篠笹の陰の顔』( しのささのかげのかお ) では『青い絨毯』に登場した長島萃は、"高木"という人物として、その出会いから、長島の家族と坂口安吾の関係までが近くない距離感で描かれている。
長島の死』1934 年〈昭和9年〉発表より時を経て、さらに描写がはっきりしている。

一番最初に芥川龍之介と坂口安吾との接点として『青い絨毯』に出会った時に、最初は気にかからなかったんだけれども、ん?おや?というなんだか変だという腑に落ちないことがあった。この作品は、青空文庫で読める
  ▼青空文庫『青い絨毯』坂口安吾 リンク

芥川に無闇な敵意をもって、それはなぜかということは、以下にある『篠笹の陰の顔』を読めば少し理解を助ける、芥川の家を < 死の家 > と云うときに、それを笑う人物として文章の終盤手前で登場させる長島という友人についての描写だった。

あいつは何を考えていたのだろう。雑誌の同人はちょくちょく芥川家へやってくるが、あいつばかりは殆んど姿を現すということもなく、そのうち芥川よりも、もっとハツラツと自殺して死んでしまいやがった。

青い絨毯
「中央公論」1955(昭和30)年4月号

つまり、その死の家を ( 別に死の家ではないわけだが ) 述懐するのに、そこに通いつめた人々を登場させるのは自然だが、一度しか訪ね来なかった、また、さしてその家に興味を示したとは言えないだろうことがうかがえる友人を特別に文章に招いているということになるんではないか?ということに幽かにだが気になっていることに、何度目か作品に目を通している時にハッキリ気がついた。
そして、「ハツラツと」とは、どういうことか?というところに、なにか呼び水があるではないか。文章のどのあたりか、という参考に、画像で示しておこう。

青空文庫「青い絨毯」坂口安吾

以降に「ハツラツと」については、何も描写、説明はない。
唐突だ。
ただ唐突に、友人を思い出した、しかし、それは誰も知らない友人のことかもしれない。というところに、タイヘンに興味をもった。
なぜなら、そういう友人がかつて自分にもいたからだった。それは気になるではないか。

きくよむ文学

篠笹の陰の顔』1940年〈昭和15〉

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