カッコイイオトナ。


大衆が主に有名人に対して言う

期待ハズレ、劣化した、衰えた

そんなの見たくなかった。


これらは対象を偶像化して、

一番良かった「とされる」頃と比較。


永遠の命を得たロボットかのように評価。

最高の状態以外を受け入れられない。

そういう状態だ。


実はコレ、受け手のワガママ。


人間をゲーム感覚で偶像と混同させて

スペックの永遠性の上に評価したがる。


そしてオノレの劣化をヨソに

偶像化した相手には

勝手にガッカリしたり称賛したりする。

ネット上でよく見られる現象だ。


この現象ってなんとなく

オトナに成りきれない自分を抱えたまま。

現代人の悪いクセでしょう。


「自分の思い出側からの評価」なんですよ。


他人も変化するんだよってことが

まだまだ、受け入れられない。

まだまだなのか?ってところがね。


アニメやアイドルの産業や、オモチャ。

歌手、アーティストなどもそう。


「あの頃が良かったから」

「思い出とリンクしてるから」

その印象が抜けきれないまま。


自分の思いにそぐわなければ、

勝手に失望、ガッカリ。

イヤイヤ(笑)、違うよそれはと。


その産業が成り立ってきた頃に

いわゆる青春時代をおくった世代に

顕著な現象ですよね。


いまの60代くらいから下には

一定数、そういうタイプの人間が

目立ってきているのではないか。


あの頃は可愛いかった、輝いていた!

あの当時はパフォーマンスが凄かった!


当時の記憶が強烈に脳裏に焼き付いて、

youtubeにあがった過去の作品、映像で

慰め合っているような人。

たぶん、潜在的に多いと思いますよ。


そして知らないあいだに醸成された、

自分の好きなコトに傾倒したって

いいじゃないか、という権利主張。


そこに「なんだかんだ」が絡み合っていって

正当化されていき、堂々とするように。

結果、誰も咎めなくなってゆく。

触らぬ神に、みたいに。


たしかに権利はある。

その場で、自身のみで

完結してるのであれば。


しかし、劣化しない偶像を

脳内ガクブチに入れて飾り、

崇める姿はどうだろう?


それをあえて発言して

可視化するのはどうだろう?


オトナになれないオトナに

見えなくもないのでは?


傾倒している人には

受け入れられないかもしれない。


だが、SNS等で誹謗中傷を

繰り返しているのは、こういった傾倒を

こじらせた中高齢の世代の仕業ではないか?


主張の激しさ、こだわり。

自身の不遇、ストレス緩和。

他者との永遠の比較。

変わらない映像、マンガ、偶像。


アーカイブという存在も大きい。

いま現在にも残ってしまう、

見ることができてしまうという側面から、

どうしても比較しやすくなってくる。


脳内の思い出が、以前はなかった

アーカイブという存在のおかげで

「よみがえってしまう」環境にいる。

だからエスカレートしてしまうのか。


ワタクシ自身も同じように、

小さい頃はアニメもマンガも観てきた。

アイドルには傾倒していないが。


でもお金が無いから一度、断ち切った。

すると、あまり気にならなくなったんです。

なきゃなくてもいいんだなって。


これが結構大きかったと思いますね。

バカらしいとすら思えるくらいにもなって。


ヘタに続けられるお金があるなら、

惰性でマンガも買い続けていただろうし、

音楽も際限なく聴いていたかもしれない。


やめた人には、やめた人にしか

見えない景色みたいなもんがある。


もちろんやめない人の景色もあるが(笑)


経年劣化と向き合い、受け入れ、

変化してきた人やモノ。

それは自分自身の横に並べて

並行しつつ馴染ませながら考えるべき。


できなくなったら、

じゃあ自分には次に何ができるか?

という現実に向き合い闘う姿に

人間の打開力や突破力、たくましさを感じ、

自然と唸りたくなる自分もいたりする。


その変化していくサマに

励まされてしまう。

感心してみたり、好意的に

評価したくなる。


一方で、70代よりも上の世代にも

たしかに夢中になった存在、対象は

同じようにいるには、いたはずだ。


でも違うのは、やっぱり

どこかの地点で人生の岐路で

趣味や嗜好を泣く泣く切り離す時期を

経験しているからなのかもしれない。


現代の私たちは趣味や嗜好を望めば、

延々と永遠にそばに置いておける環境を

手に入れてしまったから。

この違いが大きいのではないか。


過去の作品を懐かしむツールが当時は

無かったことも大きな理由だろう。


いつしか仕事や家族に優先順位を

自然にシフトさせていく環境があった。


想像するに、昔の大人はみな

切り離す時期を経て、本当の大人に

変わっていけたのかもしれない。


マンガなんか、読んでられない。

自分の趣味なんか、時間かけてられない。

卒業したんだ、自分はもう子どもじゃない。


そうやって家族を守り、養うために

必死に働いて稼いで生きてきたから。

その後ろ姿が自然とオトナを演出していた。


オトナらしいステップを

自然と踏めていたのだろう。


技術の進歩が同じような状況であれば、

もちろん現代人とは変わりないはず。

堕落してしまう人もどうせ

いまと変わらず、同じくらいいる(笑)


変化を受け入れ、受け止める。

その変化を経験しているからこそ、

客観視することができるし、

言葉にも深みが出てくる。

気づかなかったコトに気づき始める。


若い人もその経験からの金言を

拝聴する姿勢を持てたのだろう。


現代は言ってみれば、

「オトナコドモ」を量産できる

欲にまみれる、欲をかなえられる世界。


どこまでも、いつまでも傾倒できる。

だから「辞め時」を忘れた私たちは

強引にでも辞める環境に落とし込まないと

カッコイイオトナには

なれないのかもしれないんだろうなぁ。


現代のオトナは自分の趣味や嗜好を

維持し続けたまま、年齢を重ねていく。


ゲームばっかりするなと強く言えない、

歯切れの悪い説得力のないオトナ。

オトナのカタチをしたオトナコドモ。


上っ面だけのオトナが現代の

カッコイイオトナを気取ってる。


大丈夫?それで。

それでOKですか?

私たちはどうかしているのかも?












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