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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新高教文芸誌汽水域コラム① 「百姓魂」でいこう】

今回から、新潟県高等学校教職員組合が2009年から12年にかけて発行した文芸誌「汽水域」に書いたコラムを5本アップしていきます。私はこの雑誌の編集委員の一人です。2009年の創刊号エッセイは「『百姓魂』でいこう」。ひねくれたタイトルですが、中身は真っ当です(と思います)。


 わたしは野球ファンなのですが、WBCに出場する日本代表チームの愛称が「サムライジャパン」というのがどうにも気に入りません。なぜ「サムライ」でなければならないのか、ということをついつい考えてしまうからです。

 今の日本では、「サムライ」ということばは完全な褒めことばとなっているようです。苦難に耐え、成果を出した人物は「彼はサムライだ」といって褒め称えられます。反対に、「百姓」ということばは、場合によっては一種の差別語のような扱いを受けることもあります。江戸時代の人口比では、いわゆる武士階級の割合は総人口のわずか七%だったとか。人口の多くを占めたのはいわゆる百姓であったわけです。ですから、「サムライだねえ」と褒められたとしても、その人の先祖が百姓身分であった可能性は極めて高いわけで、なんだかおかしなことになってしまうようです。

 てなことを言うと、「『サムライ』というのは、その人物の人格や実力が優れていることを表すことばなのだから、つまらぬ揚げ足を取るな」と叱られてしまったりもするわけですが、それなら、武士というのは、それほどすぐれた存在なのでしょうか。

 確かに武士は、鎌倉時代から江戸時代にかけての支配階級でした。彼らは、「生産」を百姓にすべて任せ、自らは文字通り一切手を汚さず、「暴力」を背景に一方的に収奪するばかりの存在だったのです。それに対して百姓は、農業をはじめ、さまざまな生産活動に携わってきました。社会に必要なあらゆるものを、百姓は生産してきたといえます。作物を種や苗から育て、収穫する。そのままではなんの役にも立たない素材から、日常生活に不可欠なものを生み出す。そのような百姓が、日本社会を実質的に支えてきました。わたしは、そんな百姓のほうが、武士よりはるかに素晴らしい存在に思えてなりません。

 わたしたちの仕事である教育も、百姓と似たところがあるような気がします。成長の途上にある子どもたちに必要な学力を保障し、子どもたちの「育ち」の手助けをする。教育とはそのような営みです。とすれば、私たちに必要な心構えは、決して「サムライ精神」ではないと思うのです。

 教育で求められているのは、高みからものを見てえらそうなことをうそぶく「サムライ」を育てることではないでしょう。子どもたちが将来どのような職業に就くにしろ、自分の仕事や存在に誇りを持ち、他者の存在に敬意を払うことができる人間となってもらいたい。そのために必要なのが、実は「百姓魂」なのではないか、とわたしは思っています。

 多様な子どもたちの多様な人生の選択肢を保障するため手助けをするこの仕事が「百姓」仕事でなければなんでしょう。教員こそ、「百姓」でなければならない。わたしは自信を持って、そのように言いたいと思います。
 決して「武士」ではないわたしたちが作るこの「汽水域」。楽しんでいただけたなら幸いです。

【新潟県高等学校教職員組合教研誌「汽水域」創刊号 2009年3月発行 より】

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