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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  新潟県人権・同和CNコラム⑦ 文学と差別表現について高校生に語りました】

高校文芸部員の皆さんに、文学と差別表現について語ったお話です。

 高校で長く文芸部指導をやっていることもあり(いやまあ作品の中身の指導などはできませんよ。生徒さんの方が私よりはるかに才能がありますから)、たまに、文芸部員に対して何か話してくれ、という依頼を受けることがあります。この夏も、県内各地から集まった高校文芸部員の研修会で、「文学と差別表現」というテーマで話をする機会をいただきました。

 まだまだ成長過程にある高校生文学者の皆さんは、ともすると、あまり深く考えずに、いわゆる「差別語」や「差別表現」を作品中に使ってしまうことがあります。そのため、「差別語」「差別表現」とはどういうもので、なぜ使ってはいけないのか、という話をする必要が生じるわけです。

 人を差別するためだけに存在している「差別語」や、人を侮辱するために使用する「差別表現」が許されないのは当然のことですし、差別の問題は小学校のときから「道徳」の授業や「総合的な学習の時間」などで、副読本「生きる」シリーズなどによって継続的に学んできているはずですから、文芸部に集う生徒さんたちも、そんなことは言われなくても分かっているとは思います。しかし、実際の生活の中で、実は自らが社会の中で差別者として存在している、ということを自覚している高校生はほとんどいないでしょう。だから、差別の問題を自分自身の問題として考える態度がなかなか身についていないことも確かです。そこで私は、私自身がかつてやらかした差別言動や、私自身が障がい者として受けた差別体験なども話しながら、「他人の痛みや苦しみを、自分に置き換えて想像してみよう」などと語りかけてみたりするのですが、はたしてどこまでわかってもらえているのかどうか。

 ただ、これだけは伝えたい、と思っていることはあります。それは、「差別は、される人はもちろん、する人も確実に不幸にする」ということ、「自分と違う人がいる、ということはとても豊かでおもしろいことだ」ということ、そして、「差別のない社会をめざすことは、誰もが生きやすい社会をめざすということだ」ということです。

 自分の中の差別的部分を見つめることができず、差別や偏見を心に抱えたままでいる人は、その分、自分の人生の「広がり」や「可能性」が狭まります。はっきり言えば、「幅も魅力もない、つまらない人間」になってしまう、ということです。それは、社会も同様です。差別を温存したままの社会は、多くの人が暮らしにくい、息苦しい社会となります。自分と違うさまざまな人がともに存在しているからこそ、人間性も社会も豊かなものになると、私は確信しています。
 前途ある若者たちに、そのようなことをうまく伝えられたら、と、私は心から思っているのです。

【新潟県人権・同和センターニュース2015年11月号 より】

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