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誤訳の旅/村上春樹訳レイモンド・カーヴァー『サマー・スティールヘッド』、その1

村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーの短編「サマー・スティールヘッド」から。『頼むから静かにしてくれ 1』(中央公論新社 村上春樹翻訳ライブラリー、2006)所収。

この新書版の〈村上春樹翻訳ライブラリー〉は単行本から再録するときに訳文の手直しをしたと奥付に断ってあるが、それでも疑問を感じる箇所はある。「サマー・スティールヘッド」もいろいろあるので、記事を小分けすることにした。

  1. 釣りに関する誤訳(この記事)

  2. 魚の描写に関する疑問(次回書く予定)

  3. 性的な内容に関する誤訳(その次に書く予定)


前口上

念のために書いておくと(極端な場合を除いて)基本的にこういった記事は訳者や版元に対するクレームではない。多寡はあるがどんな翻訳者でも誤訳はするし根絶することは難しい。そして訳者や版元の立場では出版後に誤訳を指摘されても修正するタイミングが少ないし、特に海外文学はいろいろ難しい場合も多い(村上春樹の翻訳のように文庫化・叢書化など何度も改版の機会があるケースは稀)。

とはいえ読者としては誤訳を見つけてしまうと始末に困るので、とりあえずは文芸的営みの一部として味わってみる(誤訳の実態を検証し、背景や作品への影響を考察し、場合によってはその教訓や面白みを考えてみる)、というのがこの種の記事の趣旨。

どんな小説か

さて「サマー・スティールヘッド」の初出は1973年5月 Seneca review 誌。このときのタイトルは "The Summer Steelhead" だったが、後に "Nobody said anything" に改められて1976年の短編集 Will You Please Be Quiet, Please? に収録された。スティールヘッドとは降海型のニジマスのこと。

この短編小説は一人称の語りで、語り手はたぶん十代前半くらいの少年。彼が学校をズル休みして近所の川に釣りに行き、道中で出会った女性について性的な妄想にふけったりしつつ釣りをして、いろいろあって家に帰る、というのが話の大筋。表面的にいえば物語のメインになっているのは釣りと魚にまつわる話で、それに加えて性的な内容、さらにそれ以外のこと、という三つの要素でできている。

この記事では釣りに関連する誤訳について書く。

shot = 釣り針?

これは些細な語彙の問題ともいえるが、それなりに違和感のある箇所。

【村上訳】
僕は釣り糸にもうふたつ針を付け、歯でぎゅっと結んだ
。それから餌として生の鮭の卵を付け、水が浅瀬から落ちてたまりになっているところに糸を落とした。そして水の流れがそれを運んでいくにまかせた。おもりが岩にとんとんと当たる感触が感じられた。

『頼むから静かにしてくれ 1』中央公論新社 2006年. p. 103.
太字強調は引用者、以下同じ

この部分の原文と、より原文に則しているはずの訳例は以下の通り。

【原文】
I put two more shot on the line and closed them with my teeth. Then I put a fresh salmon egg on and cast out where the water dropped over a shelf into the pool. I let the current take it down. I could feel the sinkers tap-tapping on rocks.

【より原文に則した訳】
僕は釣り糸にもうふたつ小さなおもりをつけて、歯で噛んで固定した。それから餌として生の鮭の卵を付け、水が浅瀬から落ちてたまりになっているところに糸を落とした。そして水の流れがそれを運んでいくにまかせた。おもりが岩にとんとんと当たる感触が感じられた。

Raymond Carver, Will You Pleas Be Quiet, Please?, Vintage Books, 2009, p. 38.
訳例は引用者

この部分に登場する shot は釣り針ではなく日本語ではガン玉とかカミツブシとかいうタイプの釣り用の錘(オモリ)を指しているはず。 小さな球に割れ目が入った形状で、割れ目に糸を通して、歯で噛んだりペンチで潰したりして固定する。だから歯で close したといっている。

つまり shot が指すのは引用部分の終わりで sinkers と呼び変えてるのと同じもので(オモリは沈めるものだから sinker という)、商品名では split shot とか split-shot sinker とか呼ばれている。名称の由来はおそらく散弾の shot と同じような鉛の玉だから。そして散弾の粒を指す場合の shot は単複同型で複数形も shot と書く(だから two more shot という書き方はその意味では正確)。

こういうタイプのオモリ。画像は Walmart から借用

ついでにいえば close に「(糸などを)結ぶ」という意味はない(ふつうこういう場合は knot とか tie を使う)。この部分が「ぎゅっと結んだ」という独特のニュアンスの込められた訳文になっているのはおそらく無理な語釈ゆえだろう。

調べた限りでは釣り針を shot と呼ぶことはないし、その後にエサとして出てくる鮭の卵は単数なので(a fresh salmon egg)、仕掛けについている針は一個のままと思われる。何より、この小説の主人公がやってるようなシンプルな釣りで糸に針を「もう二つ」つけて「歯で結ぶ」というのは描写としてもかなり不自然(ついでにいうと rig を「釣り針」と訳してる箇所がいくつかあるが、普通に「仕掛け」等でいい気がする)。

さらにもう少し丁寧にみると、引用部分の四つのセンテンスでは

  • オモリを追加した(= より川底の方を探ろうとした

  • 新しいエサをつけた

  • キャストした

  • さっき付けたオモリが底に当たるのを感じられた(= 狙い通りに仕掛けが水底付近に届いていることがわかった

という展開があることがわかる(そしてカーヴァーの文章の無駄のなさに気づく)。つまりこの誤訳の問題は、単に単語の語釈を間違えているというよりは、釣りをする主人公の意識の流れを緻密になぞっている原文の意図が訳文に反映されていない、という点にある。

(……さらにいえば I put a fresh salmon egg on の a fresh salmon egg を「生の鮭の卵」と訳すのもわりと違和感がある。というのはマス釣りなどのエサに使うイクラは普通「生」なので、ここの fresh は「生の」ではなく新しいエサに付けかえて、というニュアンスのはず。あと where the water dropped over a shelf into the pool の pool は日本語で「フチ(淵)」とか「落ち込み」とか呼んでる部分に相当すると思う。……というわけで釣りの表現に関しては全体的にこなれた日本語とはいえない気がする)

誤訳の味わい度
イースターエッグ度:★★☆☆☆
深刻度:★★☆☆☆
味わい:★★☆☆☆
コメント:釣りする人ならもう少し丁寧に訳せたかも、という気もする



※ 画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Steelhead_Oncorhynchus_mykiss.jpg


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