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学校に文句を言ってた僕

「学校がやってくれなきゃ〇〇だ!」
「どうして〇〇やってくれないんだ!」
「大学の授業の多くがつまらないから、やる気が出ない」

こういう考えを大学3年生の12月まで僕は持っていました。

そのような思いの中、3年の12月にFacebook で「教員になりたくない理由」というタイトルでつらつらと自分の不安と迷いを述べました。正確には、不安や迷いを述べた“つもり”でした。
多くの方にその記事にコメントをいただいたのですが、ある方から言われたこの言葉が刺さりました。


「なりたくないならならなきゃいいと思う。誰も、あなたが教員にならないことで被害を被ったりしないから。」


至極当然ですよね。このコメントをしてくださった方とご飯に行き、その際に「他人のせいにして自分ごとになっていない」的なことを言われ、「その通りすぎる」となりました。

麹町中の改革をして有名な工藤校長先生は、著者や講演会の中で、何度も「当事者意識」という言葉を使います。
学びの当事者が「僕」ではなく、「他人事」として学んでいるから、他人の行いとか世間という抽象的なものに僕は文句を言っていたんだということに気づきました。
(工藤先生の考えを知りたい方は、以下の著作を参考にしてみてください。)

もちろん、大学などにはお金を払っているので権利を主張することは大事だとは思いますし、「大学で学ぶ当事者として」は行う必要があると思います。

しかし、「自分が学べない理由」を人や環境のせいにはしたくないなと強く思います。僕自身が、見る人によっては恵まれた環境にいるからこんなことを言えるのかもしれませんが、「自分の学びの責任」は「自分自身」が持っていたいなと強く思います。

また、これらを考える際には「学びとは何か」を考える必要が出てくると思います。学校の勉強は本当に「学び」なのでしょうか。これに関しては、様々な方の本を読みながらきちんと考え続けていくべき、テーマなのかなと思います。もしよろしければ、以下の以前僕の書いた記事も、比較対象としてご参照ください。


以上のような思いを持つ僕が、現在ポリシーとして持っている言葉を2つあげます。

「子どもに言うなら、まず自分がやれ。」

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」

前者は小学生の時の僕の言葉です。我ながら芯を捉えている言葉だと思います。教育者として人と関わる時、僕は、「自律した人になってほしい」「自分で学びを進められる人になってほしい」という思いがあります。そのために、まずは自分自身が自分の学びに責任を持つということを意識して行いたいです。

後者はフランスの哲学者アランが「幸福論」という著作の中で述べている言葉らしいです。「らしい」というのは本はまだ読んでいないので、自分では本の中に記載されているのを確認していないからです。しかし、僕がとても好きな言葉です。僕が、人から見るとポジティブ思考の持ち主に見えるのは、この言葉の影響が大きいのかもしれません。
※僕自身は自分のことをポジティブ思考の持ち主だとは捉えてはいませんが、客観的に自分の思考を見ることが多少はできているのかもしれません。

最近、アランの幸福論の翻訳版を購入しました。読むのがとても楽しみです。(興味を持って読んでくれた方・読んだことがある方・読もうと思っている方、僕と感想を共有しましょう!!!何かしらを通じて連絡してください!!!)



最後にとても恥ずかしいのですが、文章の中で取り上げていた、僕の若気の至り「一見人のせいにしていないようには見えるけど、当事者として変革しようとは考えていない僕の社会に対する文句」を乗せておきます。自分自身の思考と照らし合わせるもよし、「確かに当事者としては考えていないな」と納得するもよしです。ご参照ください。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
また、よろしくお願いいたします。