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男女の仲を見抜くタクシーの運転手

青山葉子は毎週水曜日の夜に赤坂哲也をバーに誘い深夜まで飲んだ。哲也から誘うことはなく、朝まで飲むこともない。午前2時過ぎにお互いアルコールの効き目がピークを迎えると葉子が会計を持ちタクシーを呼ぶ。

車内ではそれぞれ窓越しの夜を眺め、深夜ラジオから流れるメロディに心を預ける。
葉子のマンションに着くとメーターに表示された金額に加え、哲也のマンションまでの料金を葉子が支払い、哲也は1人タクシーで帰路に向かう。

内容は様々だが輪郭だけでは区別がつかない水曜日の中で、1度だけ葉子が哲也をマンションまで送らせたことがあった。

その夜葉子はワインボトルを2時間足らずで空けた後、さらに違う品種のワインをグラスで飲み続けていた。

「ねぇ分かる。料理の素材や調理法、ワインの品種や産地について語らせたら彼らシェフやソムリエはエキスパート。それは間違いないわ。でもね、でも、お客様が価格に対する対価に何を求めているか分からなければ、星の数や協会のバッジなんか単なる飾りよ」

話が自らが経営するイタリアンレストランのことに触れると、葉子の飲むペースは加速した。哲也に仕事の話しをするのは初めてだったが、葉子は気持ちのバランスを保つためだと、予め自分に言い訳をしながら哲也にその思いを包み隠さずに話した。

午前2時を過ぎて葉子がトイレに立つと、バーテンダーは葉子の席に水の入ったグラスを差し出し、哲也と目を合わせた。

「今日はこの辺りにしておいた方がいいですね」バーテンダーの目を見て言うと哲也は会計を依頼してタクシーを呼ぶよう伝えた。

葉子がカウンターに戻り次のオーダーをしようとすると、それを制する術を哲也は目で求めた。

バーテンダーは葉子を見て言った。

「間もなくタクシーが参ります。来週の水曜日にはシャトーのワインを仕入れて、お待ちしております」
「そうね。この空間でのシャトーの味わいを期待するわ」
葉子は素直に水を飲み哲也の目を見つめて言った。
「分かってると思うけど、わたしかなり酔ってるから」

葉子は哲也の手をとり、鞄を哲也に預けた。
タクシーに乗ると葉子は哲也の膝の上に頭を乗せ、哲也の方に顔を向けて横になり目を閉じた。

哲也は葉子の頭が揺れないようにその髪に穏やかに触れ、運転席のルームミラーを見た。後続車からは自分1人しか乗っていないように見えることを想像して、葉子の静かな寝息に耳を傾けた。

葉子の手は哲也の太ももに添えられていて、すぐに届くところにいた。哲也はゆっくりと息を吐き、葉子の手の甲に自分の手の平を重ねた。鼓動は高まるがその思考には冷静さが保たれていた。

運転手は滑らかなブレーキと緩やかなアクセルを繰り返し、自身の気配を消しながら空気を察して読み解いた。

タクシーがマンションにつくと葉子は目を開けて哲也を見上げた。
「10階の107」
そう言うと葉子は財布とマンションの鍵を哲也に渡した。

運転手が料金を告げると哲也は葉子の財布から支払いを済ませ、手を取り葉子をタクシーから降ろした。
「カバン、持って」
葉子は頬を緩ませ無邪気に言った。
哲也は葉子の鞄を持ちマンションの前の自販機で果汁入りのジュースを買い、葉子の鞄に入れた。

マンションの前に着くと葉子は哲也を見て甘えるように言った。
「カギ、開けてよ」
哲也はマンションの10階から駐車場を見た。
まだ先のタクシーが止まっていることを確認してから哲也は葉子のマンションの鍵を開けた。

「ねぇ、どうするの」
葉子はマンョンの扉に寄り掛かりながら哲也に聞いた。
哲也は考えられるリスクを頭の中に並べてそれを数えた。数で言えばそれ程多くはないが、対処法はその場では思いつかなかったし、何より哲也にはリスクに飛び込む覚悟はなかった。
葉子に鞄を手渡し哲也は言った。

「今日はゆっくり休んで下さい。おやすみなさい」
「なぁんだ、やっぱり帰るんだ。ジュースありがとね。おやすみ」
葉子は哲也の耳元でささやいた。

再びタクシーに乗ると哲也は運転手に聞いた 。
「分かっていたんですか。僕が戻ること」

運転手はミラー越しに哲也を見て言った。
「いや、今回は微妙でしたね。私が見た限りでは、このまま戻らない線もあり得ました。あなた次第じゃね。でもわずかに戻る気配のが強かったですね」
「だいたい分かるものなんですか」

哲也が聞くと運転手は眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭きながら言った。

「そうですね。最初の5年ぐらいは外すことのが多かったですね。10年で半々、15年過ぎてからは急に掴めるようになってきましたね。その辺りの雰囲気が」
哲也は感心しながら興味深く頷いた。

「そう、1度著名な小説家を乗せたことがありましてね、言うんですよ「タクシーの運転手とバーテンダーは男女の仲を見抜くプロだ」ってね。私はそういうの、刑事とか占師が専門だと思ってたから嬉しくってね」
「なるほど。小説家に言われるところが興味深いですね」

哲也は運転手に行き先を伝えると、目を閉じて葉子の手に触れた感触を思い出しながら深夜ラジオに耳を傾けた。

マンションに着くと運転手は哲也に名刺を渡して言った。
「新橋と申します。水曜日の深夜にまたのご用命をお待ちしております」

午前3時、アルコールに思考と感情を揺さぶられながら、哲也は葉子の部屋に入らなかったことを後悔しつつ、その行為が正しかったと思い自らを諭した。

夜が明けると明晰な思考に触れながら赤坂哲也は青山葉子にメッセージを送った。

「次の水曜日を待たずに葉子さんに会いたいです」

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