バーカウンターで出会った女
バーで酒を飲みはじめてからの10年間、そのカウンターで何百人もの人を見て、何十人もの人と酒を飲み交わしてきたけれど、カナコほど僕の興味を惹く人はいなかった。
「この話はあなたにしかするつもりはないけれど」
はじめてバーカウンターで隣り合わせた夜にカナコはそう言った。
「けれど」と書く人は少ないが、それを口にする人はさらに珍しい。カナコはその希有な1人だった。
「わたし、もう5年以上セックスをしてないの。彼氏はいるけれど」
カナコの突然の告白に驚いたけれど、僕は平静を装い、好奇心を隠しながら頷いた。
好奇心が浮き彫りの人には、真実を知ることはできない。
それは僕がバーカウンターで学んだことの1つだ。
「彼氏はそれに不満じゃないの」
僕は当たりさわりのない質問で返した。
「セックスはしてないけれど、ちゃんと満足はさせている。もちろん彼はセックスをしたいと思ってるだろうけれど、わたしから離れないからそれなりに満足はしていると思う」
タバコの煙はカナコの真上に垂直に伸びては闇へと化した。
カナコが自らの過去を話さないことは、誰もが承知していた。それは女性客に自らの過去を自慢気に話した夜には、惨めな末路が待っていることと同じぐらいそのバーでは周知の事実だった。
いずれにしてもカナコは、そのバーで見る女性の中で際立って美しかったから話題に絶えることはなかった。
「カナコがいくつかなのかは誰も知らないし、彼氏がいるかも分からない。はっきりしているのは彼女はオレたちの誰にも興味を持っていないということだ」
ある夜、僕と隣り合わせた男は不服そうに言った。週に6回そのバーカウンターで顔を利かしている彼が言うことだから、カナコについてのそれは概ね真実なのだろう。
カナコは美しく時折りその仕草には色気が訪れたが、その美貌や色気を外側に向けることはなかった。その美しさは相手を惹き込む武器としてよりも、牽制する盾としての役割を担っていた。その盾はカナコに相手との距離を保たせた。加えてカナコは誰よりも酒に強く、何杯飲んでも隙を見せることはなかった。
カウンターで隣り合わせた男には、話を合わせながらウイスキーをロックで飲み続ける。
自らの話をすることなく、問われたことに答えると自然に話をすり替えて、相手が話したさそうな話題を振る。
いつの間にか相手は上機嫌に酔いカウンターを後にする。
カナコはしらふのままウイスキーを飲み続け、タバコの煙を真上に吹かす。
そのようにして、カナコはバーカウンターにおいて、徹底的に自己開示を回避していた。そしてその警戒心は周りの客たちの好奇心を巧みに刺激した。
そんなカナコの姿を僕はカウンターの端から何度となく見てきたが、偶然なのか、意図あってか僕と彼女の席が隣合わせになることはなかった。
その夜、僕がいつも通りカウンターの端でウイスキーの水割りを飲んでいると、カナコが僕の隣に座ってきた。他の席は空いていたし、客は僕とカナコを除いて誰もいなかったから僕はその夜の行く末に期待を感じながらも警戒した。
「バーボンのウイスキーをオンザロックで。銘柄はお任せするわ」
僕が知る限りカナコがバーボンのウイスキーをオーダーしたのははじめてだった。
シーバスリーガル12年、バランタイン12年、ジョニウォーカー黒ラベル。僕が知る限りカナコのオーダーは、ブレンデットのスコッチウイスキーに限られていた。カナコはその夜のオーダーを決めると、同じ銘柄のウイスキーをロックで飲み続けた。日により杯数は異なったが、シーバスならシーバスのロック、ジョニ黒ならジョニ黒のロックとカナコのオーダーが変わることはなかった。
だからその夜にカナコがバーボンのロックをオーダーした意図を僕は考えずにはいられなかった。
「あなたは何にするの、グラスが空いてるけれど」
「同じウイスキーを水割りで」
バーテンダーはカナコにはオールドクロウのロックを、僕にはカティーサークの水割りを差し出すと、ひと目僕を見て僅かに微笑み、僕とカナコから一定の距離を空けた。
「でもそろそろ今の彼とは別れようと思うの」
カナコはその細い薬指で氷を1回転半回した後、濡れた指の行き先を探っていた。カナコの仕草に見惚れそうになりながら、僕は話の続きを待った。気になっても、結論を急いで聞こうとしてはいけない。
しばらくの沈黙が続いた。バーテンダーはその気配を消しながらも我々の様子を伺っていた。ウイスキーが氷に馴染んでいく音が耳に触れた。
「わたし、5年振りに抱かれたいと思ってしまった人がいて、だからもう彼とは終わりにしようと思ってるの」
カナコはそう言うと身体を傾けて、その視線を僕に注いだ。僕はカナコの視線を交わしながらウイスキーの水割りで喉を潤した。アルコールはその神経を緩めようとしたが、カナコの視線が注ぐ緊張感の方が鋭く、緩和は遠のいていった。
「他に好きな人ができたのではなく、他に抱かれたい人ができたということ」
「まさにそういうことね。その2つは似通ってはいるけれど、求める出どころが違うの」
「感情と感覚。好意と希望。恋心と欲求」
僕なりにその2つの違いを簡潔に言葉にした。
「やはりあなたは物分りがいい。わたしが思った通りこのバーカウンターで酒を飲んでいる他の人は違う。それから」
僕はウイスキーの水割りを味わい、カナコの続きの言葉を待った。カナコのバーボンのロックはまだ半分ほど残っている。グラスの中ではウイスキーと氷が調和を図りはじめていた。
「あなた、いつもカウンターの端からわたしのこと見ていたでしょ。わたし気づいてたわ。そして」
バーテンダーは我関せずと氷をカットしている。氷が削られる音が店内に規則的に響き渡る。
「あなたは今2つのことが気になっている。どうしてスコッチウイスキーしかオーダーしないわたしが、今日あなたの隣でバーボンをオーダーしたのか。それからわたしは誰に抱かれたいのか」
その場での適切な切り返しが分からずに、僕はただグラスに残ったウイスキーの水割りを飲み続けた。そして当然のことながらカナコが言った通り2つのことが気になっていた。
「どちらか1つだけ教えてあげる。あなたが聞きたい方を」
カナコはそう言うと残りのバーボンを一口で飲み干して、同じくオールドクロウをロックでオーダーした。僕のグラスにはまだ半分ほど水割りが残っていた。
「ねぇ、あなたはどちらが聞きたいの」
カナコは再びその身体を僕の方に傾けて、僅かに距離を詰めて言った。
知りたい方は明確だったが、今この状況でカナコに対してどちらを口にするかは決めかねていた。僕は2つの選択肢のそれぞれの答えを探りながら、残りの水割りを一気に飲み干した。氷がグラスの内側を滑る音が鈍く響いた。
「どうして今日、バーボンのロックをオーダーしたのか」
僕なりの結論を伝えるとカナコは、その視線を僕からバックバーへと焦点を変えた。
「あなたってやはり一味違うわね。酒を飲みに来ているのに自らを緩めることができない。何をそんなに恐れているの」
何をそんなに恐れているのか。それはカナコにも同じことが言えるはずだが、僕は黙ってその場の成り行きを待った。
カナコはそれ以上話すことはなく僕からの距離を元通りに保ち、タバコの煙を真上に吹いた。
沈黙の中で僕とカナコは3杯ずつのウイスキーを味わった。他に客が来ることはなく、夜は静けさの精度を高め、バーテンダーは適切な距離を保ち続けた。
ウイスキーを飲み終えると、カナコは僕の目を除きながら言った。
「わたし、あなたが冷静じゃいられなくなるところを見てみたいの」
そう言うとカナコは残りのウイスキーを一口で飲み干し、カウンターを後にした。
僕はカウンターに残り、バーテンダーにバーボンのロックをオーダーした。バーテンダーは表情を変えずにカナコと同じオールドクロウのボトルを手にした。
隣の席にはカナコの余韻が残っていた。
僕は誰もいないカウンターで、カナコに何を言うべきだったのかを考えながらバーボンのロックを味わった。
氷に溶かされながらもバーボンは僕の喉元を鋭く刺激した。
バーテンダーは僕と目が合うと、柔和な微笑みを残し、闇へと消えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?