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自分を構成する要素から根本を見直してみる(No.22)

今日はインプットしたことを、自分の過去と絡めてアウトプットしていこうかなと。

noteを始めてもう7ヶ月ほどが経つ。20記事ほどを7ヶ月もかけて書いているのを量や質の視点で見れば、明らかに遅いしアウトプットとしては質が低いと思う。

数はわかりやすいし、誰が見ても目に見えやすいので裏切らない。けれどこんなに書いたのに全然成長してないな自分など、努力や積み上げとして捉えると結果が伴わないなど裏切ることもあるのが数だと僕は考えている。

そんな感じで、自分は文章をなんで書くかを改めて掘り下げていきたい。数に惑わされず、どれだけ考えや思いを文字に乗せられるかを大事な指針の1 つにしているからね。


自分という人間の確認

元々、幼少期からの口下手や(親が毎日のように喧嘩していたので)相手の顔色を伺う癖が無意識に身についていた。

小学5年生の時に始めたサッカーも、親が「休みの日に家でダラダラするだけなら何かやれば?」と言われてサッカー少年団のチラシを見せられたのがきっかけ。自分の意見を伝えることが苦手で、修学旅行の自由行動時の行き先も他の子に同調していた。「何食べたい?」と言われても何でもいいよと言うことがほとんど。

今は社会人になりある程度の年数も経つので、以前より自分の意見が言えないことは減った印象かな。ただ、自分と同世代でしっかり自分の意見を言える人には凄いなと思うし、「自分もいつか、、」という印象を今でも抱いている。自分の意見や考えがない時の”自分っていったい?”という虚無感を覚えるのが本当に嫌だった。

noteを書き始めた最初の理由は、学んだことのアウトプットがメインだった。今は自分の意見や考えを発信して自分を表現していくという明確な理由の1つとして見つけられた。音声やYouTube、TikTok、ライブ配信など様々な媒体がある中で僕は表現の1つとして文章を採用してみたっていう感覚なのかな。

「自分は何者?」という抽象的な問いから、自分を上手く表現するにはどんな方法かまあるのだろうという模索に繋がり、文章を書くという具体例にたどり着いたのも後付けのストーリーかもしれない。

最初から点と点が繋がることもあれば、ある時に突然繋がって初めて理解できるもいう出来事も沢山ある。文章を書く段階で僕たちは自分の独自の視点で文章を見て編集するし、未来に繋がるためにペンをとっていることが多い。文字が生まれた理由を辿れば、後世に伝達するためであったりする。また、僕たちが書いた文章が未来の誰かに読まれて勇気を与えたりなど何かしらの影響を与えることができるなら、これほど嬉しいことはないと思う。

話は逸れてしまったが文章は誰かに伝えるために書く以上、なぜ書くのか、何を書くのかを明確にした方が伝えたい人に届きやすい。文章を書くに至ったストーリーは大切だと思う。

僕は世界観や軸を大切にしている以上、長く続けることを大事な要素としてもっている。(もちろん惰性ではなく、エネルギーの源泉になるような存在として)どのように書くかに力を入れすぎて、短命で終わらないように気をつけたい。どのように(テクニック)に特化しすぎると、逆に自分がテクニックに呑み込まれて個性を失ってしまうような気がするからね。


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