米粒に思いを馳せる人生
「この米粒は何のために生まれてきたのだろう。苗から実を付け、過酷な環境を耐え抜き、やっと食べてもらえる時がきそうなのに。私はこの米粒を見捨てることはできない。志半ばで炊かれることなく排水溝に流れる米粒を思うと無念でならない。」
米粒の人生を思うことは私の人生を豊かにするに違いない。
先日お米を研いでいたらすすいだ時に米粒が1,2粒シンクにこぼれた。
拾って戻し、もう一度洗う。また1,2粒こぼれる。
もういいやと思いそうになる時いつも引き留められる。
この米粒が生まれてきた意味は何なのかと。
食べられることなく生涯を終える米粒を思うと涙さえ出そうになる。
だからどんなに面倒でもこぼれた米粒は1つ残らず釜に戻す。
この米粒を引き受けたが最後、本来の使命すなわち美味しく食べられることを全うさせるのが米を研いだ者の矜持だ。
私は共感性が高い。
何にでも感情移入するし、自分で想像した人や物のバックグラウンドに泣きそうになることも珍しくない。
米粒の件に始まり、皿に最後に残されたほうれん草の切れ端や間引きされる花の芽、新しく仲間入りした動物園にいる象など対象は様々だ。
共感性が高いと生きづらさを感じることがよくある。
疲れるのだ。
実際、米粒にいちいち感動や人生を感じるのはエネルギーを使う。
でも仕方ない。思わずにはいられない。
昔からそうだ。
思えば私の人生は共感と共にあった。
小学生の頃に流行ったシール集めでは可愛くないシールが取り残されるのを見ていられなくて友達と交換できなかったし、8歳くらいの頃にいとこからプレゼントされたミッフィーの可愛いすぎる財布は(財布が)役目を終える切なさを思って高校卒業まで使った。
友達に変な目で見られるのが嫌では無かったか?という問いが必然的に生まれるが、そこは気にならなかった。
10代の頃の私は特に、人は人、自分は自分だった。
物や動物より身近な人への共感力を発揮すべきだったのではないかと今でも真剣に思う。
止められない共感性は、ポジティブにとらえることで解決を図る。
筋金入りの共感性持ちだが、生きづらいのは困るからだ。
米粒に固執するのは食べ物を大切にしているから良いことだし、
皿に残った微々たる量のほうれん草は食べた方が後片付けがラクだし、
見るからに萎れている花の芽はこのまま育てても満足に成長できなかったかもしれない。
そもそも動物園で生まれたかもしれない象はエサも寝床も十分な動物園できっと幸せだ。
手帳にずっと貼られたままのシールは気に入って買ったのだから手元に残るのがむしろ正解で、
ぼろぼろで真っ黒なミッフィーの財布は勤続10年という本人も想定外の活躍で最後は野球選手の引退セレモニーばりに清々しい気持ちだったに違いない。
私は共感性でより人生を豊かにすることができる。
米粒やほうれん草の悲しみのその先を感じることができる。
生きづらさなんてない。
きちんと気持ちを整理する解決策を常に模索しているし、何よりこれは私の立派な誇るべき個性なのだ。
さて、カップのお茶を取り替えて休憩だ。
…待て待て、このお茶は飲まれずに生涯を終えるのか。
カップを傾けた手が止まった。
私はまた深くため息をついた。
おばた
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