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1.セットアップ ―朱里

爆音が駄々洩れの部室。扉を開くと押し流されそうなほどの音楽が私とスミカを迎えた。

「ストップ、ストーップ。いらっしゃい。入部希望?」
「はい。芸術学部音楽制作専攻1年、滝スミカです。」
「お、同じく音楽制作専攻1年の武川朱里です。」

スミカとは入試の時に出会った。入学オリエンテーションの日に学籍番号が続き番号で隣に座って以来、彼女の勢いに流され中だ。ここに来たのも彼女の希望で、一緒に入ろうという誘いにあいまいな返答をしてしまったからだ。

「朱里?」
「…翔先輩?」

ドラム横のソファーに座っていたのは翔先輩だった。中学の生徒会で一緒に企画担当をしていた、一つ上の先輩だ。昔むかしの、一応元カレである。とはいえ今思えば付き合っているという感じではなく、友人よりちょっと進んだ、子どもの仲良しごっこの延長程度であった。唐突な再会に驚きを隠せない私になどお構いなく、スミカは入部届を書き始めた。ちゃっかり私の分まで。そのまま練習を見学するという名目で、閉校時間まで居座った。スミカはヴォーカル担当の真人先輩が気に入ったようだ。

「ねえ、私さ、ベースやりたい。」
「何の話?」
「バンドに決まってるじゃん。朱里は?」
「あぁ、考えてなかった。楽器なんてピアノしかできないよ。」
「私だって同じだよ。ベース持ってないし。」
「じゃあ何で。」
「だって、真人先輩がギターだから。」

なんて単純な。それからスミカの妄想を延々聞かされた。

翌日から講義が始まり、慌ただしくも好きな舞台の勉強ができる嬉しさで必死にノートを取っていた。講義が終わると部室で楽器の練習。スミカと私は経営学部1年の実緒と3人でガールズバンドを組むことにした。実緒はもともとヴォーカル志望で、ギターも弾けるからとギターヴォーカルに。結果、私はドラム担当になってしまった。これもまた経験だと割り切った。部室は時間制で毎日90分しか使えず、短時間集中型で必死に楽器を覚えた。時々、真人先輩のグループに教えてもらいながら。

「だいぶいい感じになってきたね。」
「聞いてたんですか?」

真人先輩と翔先輩だった。翔先輩は部員ではないらしいが時々ふらっとやってきては、いつもソファーに座って何かを読んでいる。ただ真人先輩を待っているだけのようだった。荷物をまとめているとポンっと肩を叩かれた。懐かしい、彼なりのあいさつだった。多くを語らず、冷静で大人びた姿が乙女心を燻り、中学時代は彼に告白する女子は途絶えなかった。しかし軒並み断られは泣いて帰る。学校では有名な話だった。

「朱里さ、翔先輩と知り合いなんだよね。」
「うん、中学の先輩。」
「それだけじゃないでしょう。」
「生徒会で一緒に企画やってた、かな。」
「それで付き合ったんだ。」
「付き合ったっていうか。周りはそう言ってたけど、告白とかしたわけじゃないし。」
「翔先輩からなんだ。意外。」
「それも違う。なんていうか、きっかけが何だったのかはもう覚えてないけれど、なんとなく一緒にいる時間が多くなって。一緒に帰ったり、たまに映画見たりしてた。」
「不思議な関係。」
「今思えば、人気者の先輩のそばにいたかっただけなのかもって思う。先輩が卒業したら自然と会うこともなくなったし。」
「ちょっと理解不可能かも。」
「まあ、子どもだったんだよ、きっと。」

恋愛自体よくわかっていなかった頃だった。純粋といえばそうかもしれない。無知で頑固で出しゃばりだった。先輩と一緒にいるようになったのは、部活の仲間に更衣室でいびられた日からだった。部活に行けず、運動場の石階段に座っていたら、ちょっと付き合えと声をかけられた。生徒会以外で話をしたのは初めてだった。それから石階段で会っては話を聞いてくれる相談相手のような存在になった。2人でいることが多くなり、目撃した友人たちが勝手に付き合っていると盛り上がったのだ。

「それで、久々に会ったんでしょう?どうなのよ。」
「どうって、どうもないよ。」

どうもない。というか未だ恋愛というものが何であって、好きという気持ちがわからないだけ。芸能人のファンという感覚とはまた違うのだろうけれども。


“ごめん、席よろしく”

1限だけの日だというのに、寝坊した。スミカにメッセージを送り、原付カブを飛ばした。幸い後方に扉がある大教室の講義だった。急いで静かに教授が板書している隙を狙って低姿勢で入っていくと席に着くまえ肩をポンと叩かれた。翔先輩だった。驚いたが、遅れた分のノート写しで頭がいっぱいで話しかける余裕はなかった。

「来週までにウエストエンドの作品を必ず1本見て、レポートを提出すること。以上。」
「ありがとうございました。」

「夜中までドラマでも見てたの?寝坊しちゃって。」
「なんか眠れなくて。」

振り返ると先輩はもう席にはいなかった。

「あ、翔先輩、先輩じゃないみたいだよ。」
「どういうこと?」
「同期。私たちと同じ1年なんだって。」
「マジで…」
「詳しくは教えてくれなかったんだけど。まあ、受験で失敗したんじゃん。それより早く行こう。2限は部室空きだって。」
「あ、うん。」

授業がない時間に部室が空いていれば必ず行くようになった。楽器に夢中なのか真人先輩に会いたいからなのか。

「いらっしゃい。」

誰もいないはずの部屋に真人先輩と翔先輩がいた。会議用のテーブルで何か作業していた。

「そうだ。スミカちゃんたちも夏の対バンに出てみない?」
「いや、まだ無理ですよ。やっと1曲仕上げたばかりですし。」
「8月までまだ余裕あるから、いけるでしょ。」
「朱里、どうする?私は出たい。」
「一応、実緒に聞いた方がいいでしょう。」
「だよね。3人で決めてから連絡しますね。先輩のケータイ教えてもらってもいいですか。」

スミカは真人先輩と番号を交換し、すぐ実緒にメッセージを送った。2人の話を聞きながら、ふと翔先輩に目を向けると、図面のようなものにサクサクとペンを走らせていた。聞いてないような素振りが懐かしかった。

「実緒、出るって。あとは朱里だけだよ。」

なんという自信家たちなのだろう。楽器触って1か月も経ってない。3人で合わせても小学生の合奏以下という状態なのに、人前に立つことを考えるとは。返答に困っていると真人先輩が決断を迫ってきた。

「大丈夫でしょう。もし不安なら、オレがギターで入ってあげるよ。だから出よう。翔もそう思うよな。」
「俺に振るなよ。まあ、いいんじゃない、やってみれば。」
「ほら。演出が言うんだから、大丈夫。出よう。」
「翔先輩が演出するんですか?なおさらじゃん。朱里、決まりでいいよね。」
「うん、じゃあ…頑張ります。」

いつものようにスミカのノリに流された。自分の気持ちを出して衝突するより、楽だ。いつからか面倒なことは避けるようにしていた。
1時間ほど楽器の練習をした。まだまだ一定のリズムを刻むことができない。本当に夏までに聞かせられるような音楽を演奏できるようになるのか、疑わしいほどだ。真人先輩とスミカのセッションに耳を傾けている余裕もないほどに、ひとり黙々と楽譜に向かった。

「今日はここまで。みんなもう講義ないよね。ちょっとさ、ドライブでも行かない?」

真人先輩の提案だった。先輩のお気に入りだという海辺のカフェでランチをして、海沿いを散歩した。潮の香りと初夏のまだ冷たい風の組み合わせが心地よかった。時間も気にせずに陽が沈むまで過ごして帰路についた。

「じゃあ、また明日。」
「スミカ、降りないの?」
「先輩が家まで送ってくれるって。じゃ、翔先輩、朱里をお願いしますね。バイバイ。」

ものすごくありがちなパターンなのに、なぜ予想しなかったんだろう。スミカが真人先輩狙いだということをすっかり忘れて過ごしていた。車が出るのを見送って、翔先輩が口を開いた。

「家、どの辺?」
「あの…」
「ついていくから、案内して。」

大通り沿いを歩いて交差点を右折した。車一台が通れるほどの脇道だ。街灯があってもかなり暗く、遅い時間だから怖いほど静かだった。バイクでいつも通っている道のはずなのに、見知らぬ場所のようだった。

「先輩、今日の1限、一緒でしたよね。」
「そうだね。」
「先輩も1年生だって。」
「言ってなかったっけ。先輩じゃないんだけど。」
「スミカから聞きました。当然2年だと思ってました。」

とても気になった。高校は有名進学校だったはずだ。家庭の事情とかだったらどうしよう、それとも浪人とか。聞こうか聞くまいか迷っていた。

「とりあえずさ、その敬語っていうか、やめないか。昔みたいでいいよ。」
「…うん。」
「高校でさ、学校休みがちで出席足りなくなってダブったんだ。」

想像していなかった理由に返す言葉が見つからなかった。しばらく無言で歩いた。衝撃を受けたからか、深夜だからか、空気がとても冷たく感じた。4年。決して短くはない時間。先輩に起きた変化に触れたい。でも触れた瞬間、また静かに遠のく気がした。

「着きました。すみません、遅い時間なのに送ってもらって。」
「遅いから送ったんだろう。」
「すみません。」
「…おやすみ」
「ありがとうございました。おやすみなさい。」

アパートの階段を駆け上がり、家に入るやいなや出窓から道路を眺めた。後頭部に手を当てた後ろ姿が懐かしい心を呼び起こした。

ーーつづくーー

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