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作者の意図とその証拠

作品解釈における意図の話は、定期的に浮上するので、みんな好きなんだなぁと実感する。最近もろもろを読んで整理できたことをいくつかまとめておこう。なかなか進展の見えない話題だが、なんらかの役には立つだろう。

村山さんの紹介しているMatraversの議論はかなり腑に落ちるものなのだが、補助線として以下の話をしておくとなおよしかもしれない。すなわち、意図論争においては、大きくふたつの(結びついてはいるが)異質な問いが与えられている。

存在論的問い:作品の正しい意味は、作者の意図によって決まるのか。
認識論的問い:正しい解釈が参照すべき証拠はなにか。

しばしば想定され、ボコボコにされる類の意図主義とは、前者の問いに対し「作者の意図だけで決まる」と答え、後者の問いに対し「作者の発言、日記、インタビューなどを片っ端から調査すべし」と答える。それじゃあ、もう批評じゃなくて伝記じゃん、というので反意図主義者たちがいきり立つのも当然だろう。しかし、これらの極端な意図主義をとる論者は、現代の議論ではまったく見当たらない。ハンプティダンプティ主義というやつだが、当の立場がうまく行かないのは言うまでもないので、この話は割愛。

いわゆる穏健な現実意図主義[moderate actual intentionalism](Carrollとか)は、「実現された意図」、すなわち「意図されており、かつ作品から読み取れるものとして無理のない意味」を正しい意味としている。これは第一の、存在論的問いに対する答えだ。重要なのは、しかし、存在論的問いに対して穏健な現実意図主義をとるからと言って、認識論的問いに対して「作者の発言、日記、インタビューなどを片っ端から調査すべし」と述べる意図主義者ばかりではない、という点だ。上述のMatraversも、まさにこの話をしている。

作者の意図に関する公式の報告は、必ずしも信用できるものではない。作者は自身の意図について理解し損ねており、誤って報告している可能性がある。であるとすれば、結局は伝記的情報に頼るよりも、目の前の作品を注視したほうがいい、ということになるのだろう。Carrollも認めるように、現実意図主義は、「テクストに注目せよ」といったニュークリティシズム的なテーゼと矛盾しない。作品は作者の意図に関する第一級の証拠であるからだ。作品から読み取れる意図のなかには、作者が実際に持っていた意図であるにも関わらず、自身で気づいていないような意図も含まれているかもしれない。

「作品の正しい意味は、作者の意図で決まる」という主張と、「正しい解釈は、作者の意図に関する公式の報告ばかり調査すればいいというわけではない」という主張は両立する。これは、無意識的な意図を前提としたモデルだ。あるいはこのような前提が奇妙に思われるなら、作者の意図というかわりに心理と言ったほうがいいかもしれない。意図とは定義上、自覚されており、文章に起こせるような事柄なのかもしれないが、心理のなかには無意識的な事柄も含まれている。作品制作はさまざまな心理的状態(意図、信念、イデオロギー、世界観、など)によってコントロールされている。もろもろの証拠を参考にしつつ、とりわけ作品を精査することで、これらの心理的状態を探り、再構成するという立場を指して、Carrollは控えめな現実心理主義[modest, actual mentalism](諸事情のせいで気の毒な名前だ)、あるいは解釈における心理学的アプローチ[psychological approach]と呼んでいる。Carrollは、当の立場としてWollheimを再構成している。

対して、反心理主義は、そもそもの存在論的問いに対し、「作品の正しい意味のなかには、作者の心理にまったく含まれていないものもある」と主張することになる。DaviesやGautは、実現された作者の意図のなかには含まれていないが、依然として正当な解釈があることから、意図主義を退けている。例えば、Gautは精神分析やマルクス主義批評といった、作者が生きた時代よりあとの分析ツールを用いた解釈を認めたがっている。心理主義についても同様の主張を繰り返すだろう。

ただし、ここでも、反心理主義をとりつつ、「作者の発言、日記、インタビューなど片っ端から調査すべし」というスタンスはとることに矛盾はない。仮説意図主義にせよ価値最大化理論にせよ、より合理的でより面白い解釈を構築するために使えるリソースはなんでも使う、という態度は十分理にかなっている。

まとめるとこうなる。

「作者の意図」では狭すぎる場合が多いので、「作者の心理」ぐらいで言い換えたほうがいい。心理主義は意図主義の上位互換。
作者は自分の心理を十全に理解できており、正確に報告できるとは限らない。ゆえに、
心理主義をとるからといって、作者の発言、日記、インタビューなどを片っ端から調査すべしと主張されるとは限らない。作者の心理にとって、なによりもの証拠である作品を精査すべし、という心理主義は理にかなっている。
逆に、反心理主義をとるからといって、作者の発言、日記、インタビューなどは一切参照すべきでないと主張されるとは限らない。作品にとって、より合理的でより面白い解釈を構築する上で、それらの証拠も参考になる。


余談。

実際のところ、存在論的問いに関する意図主義vs非意図主義の論争は、説明したい解釈(正当だとみなす解釈)が、前提のレベルでずれていることが多く、あまり進展が見込まれない気がしている。Carrollなんかは、(明言したりしなかったりするが)精神分析やらマルクス主義批評の熱心なアンチなので、そういった解釈がことごとく「意図されてないので正しくない」ということになっても困らないだろう。これは、「批評とはなにか」を超えて「批評とはどうあるべきか」という規範的な問題なので、また別の話題だ。

あるいは、いかに説得的なケース(大多数の人から正当だと認められる解釈実践)を挙げるかが勝負の分かれ目でもあるのだが、ここには割と重大な非対称性がある。「このケースでは、作者がこれを意図しているからこの意味でしょう」という、心理主義に有利なケースはぽんぽん挙げられるのに対し、「このケースでは、作者は意図していないが、明らかにこの意味でしょ」という、反心理主義に有利なケースはどうもふわっとしていて、具体性に欠けることが多い。これはおそらく、われわれにとってデフォルトの解釈理論が依然として心理主義であることに起因しているはずだ。

それこそ、バルトが書いてたことだと記憶しているが、中世はそうでもなかったらしい(真偽は不明)。すなわち、そこでは別のデフォルト通念があり、別様の読解が直観的に正当化されていた。となると、「作者の心理即正しい意味」という今日でもデフォルトの通念は、バルトの言うように近代の産物なのかもしれない。ポストモダニズムの諸兄があれだけ頑張ったのに、なかなか通念のレベルまで変えられなかったのか、あるいは一時期は変わってたのにまた戻ってきたのか。

少なくとも、おもいやりインターネットの時代において、「作者の死」はデフォルトの通念になりそうもない。そして、それは「批評の死だ!」と涙を流すほど悪いことでもないだろうと思っている。

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