見出し画像

「芸術なりそこない」を探し求めて

芸術なりそこないは存在するのか?

ちょっと前に書いた記事に、難波さんと村山さんが反応されていたので、この話題に関する自分の考えをもう少し補足しておこう。

論点は、Christy Mag Uidhirが「failed-art」と呼んだ非芸術のサブクラスをめぐるものである。はじめの記事と重複になるが、Mag Uidhirの主張を手短にまとめておこう。

「芸術ではない」ものはあちこちにある。私の電子ケトルも中目黒駅も月も、分類的な意味では芸術ではない。ふつうに考えれば、芸術ではないものはあちこちにあるので、「Xは芸術ではない」と言われても、Xについてなにか有益なことを知れるわけではない。この意味で、「〜は芸術ではない」という述定はふつう、informativeではなく、trivialである。

しかし、Mag Uidhirによれば、非芸術のなかには、それについて「芸術ではない」と述べることが決してtrivialではなく、informativeとなるようなサブクラスが存在する。それは、芸術作品を作るという意図的な試みの産物であるが、芸術作品になりそこねたものである。そういった芸術なりそこない[failed-art]が「芸術ではない」ことは、情報としてわりに有用な事実である。はじめから弁護士を目指していない人が「弁護士ではない」ことと、弁護士を目指して司法試験を受けたが落ちてしまった人が「弁護士ではない」ことはともに事実であるが、情報の有用さに非対称性がある。後者の人に関して「弁護士ではない」と知ることは、その人に関してなにか重要なことを知れた気がする。

Mag Uidhirの主張によれば、failed-artという非芸術のサブクラスが存在するならば、意図主義的な芸術の定義は見直しが必要になる。この辺は、もとの記事を読んでいただければよいだろう。図にまとめると、Mag Uidhirの考えはざっくり以下のようになる。

村山さん記事でもリマインドしていただいている通り、「failed-art」と「bad art」は異なるクラスである。「bad art」は芸術としての価値が著しく低い、いわゆる「駄作」だが、芸術作品を作るという試み自体は成功しており、ゆえに分類的には「芸術である」。これに対し、failed-artは芸術になりそこねている通り、「芸術ではない」。要は、意図して芸術制作しようとしても、それだけで芸術になるわけではなく、試みが失敗したせいで芸術になりそこねることがあるよね、というのがMag Uidhirの考えだ。芸術としての価値の話ではない。

さて、はっきりした直観はないが、そういったfailed-artは外延的には存在しないし、規範的に存在すべきだと考える理由もないのではないか、というのが私が元記事で表明した疑問だ。これに対し、難波さんと村山さんは、それぞれfailed-artは存在するという方向でコメントをされている。はっきりした直観のない立場について擁護するのは難しさがあるが、本稿では一旦、「failed-artはありませんし、いりません」派の代表として応答することにしよう。

実践的知識が欠けるとfailed-artなのか?:難波さんへの応答

難波のアイデアは、鴻=アンスコムの「実践的知識」を援用したものである。難波の解釈によれば、行為における実践的知識はそれぞれ次のふたつに切り分けられる。(便宜上、順序を入れ替えている)

  1. ある行為がどういう行為かを規定する意図

  2. 行為を生み出すのに必要な因果的な意図

しかしながら、後の箇所では前者が「芸術に関する規定的(概念的)な知識を持つ」こととして敷衍され、後者が「因果的に芸術作品を作る知識(能力)を持つ」こととして敷衍される。なんだか、行為論から人工物論へとシフトする段階で話がややずれているように思えなくもないのだが、アンスコム解釈は私の課題ではないので、ここでは大雑把にのみ理解しておこう。

もっぱら私がわかりやすいという理由から、ここではふたつの実践的知識をトハナニカ知識(意図)と、ドウスレバ知識(意図)と呼ぶことにしよう。芸術に関しては、以下のふたつが争点となるだろう。

  1. 芸術-トハナニカ知識:「芸術作品とは性質Fを持つものである」という知識。

  2. 芸術-ドウスレバ知識:「性質Fを持たせるには行為aをすればよい」という知識。

芸術作品を作るには、「芸術とはなにか」を概念的に知った上で、それを作るよう意図しなければならないし、「どうすれば芸術になるのか」を手段的=能力的に知った上で、それを実行するよう意図しなければならない。

そして、難波の考えによれば、トハナニカ知識とドウスレバ知識の一方ないし両方が欠けている、というケースに合わせて、三つのfailed-artが想定される。

①成功アート:技術も概念も分かっている。例:ちゃんとしたアート
②物理的なミスアート:概念はわかっているが技術がついてきていない。例:批評家ががんばるもミスってる作品
③偶然アート:概念を分かっていないが偶然アートの物理的性質ができた。例:ゾウさんアート
④完全なる失敗:概念も技術も分からない。例:なし

しくじりアートとアンスコム - Lichtung Criticism

私からのコメントはふたつある。

第一に、難波の四象限は、failed-artの論理的可能性に関する整理であって、failed-artが存在するとも、存在すると考えるべきだとも示せていない。すなわち、Mag Uidhirと同様、芸術であるために必要な条件(難波においては、ふたつの実践的知識)を羅列し、それらが充足されていないケースに合わせてfailed-artが何種類か存在しうることを示唆しているだけであり、具体的にどこのどれがfailed-artである/であると考えるべきの実例なのか、私にはまだピンと来ていない。

第二に、例示されているケースがそれに相当するのだとしたら、そこには明らかな混乱があるように読める。いずれにしたって、ゾウさんはトハナニカ知識もドウスレバ知識もいかなる意図もないのだから、「④完全なる失敗」のケースだろう。(そもそも、トハナニカ知識がないのにドウスレバ知識はある、というケースにピンときていないが、話がこじれるのでこれは脇においておこう)

比較として、Mag Uidhirが挙げている「単純なfailed-art」および「複雑なfailed-art」の条件を見てみよう。

wは単純なfailed-artである ⇔ wは、(a)F-試みの産物であるが、¬(b)性質Fを持たず、¬(c)F-試みの結果としてFを持てていない。

wは複雑なfailed-artである ⇔ wは、(a)F-試みの産物であり、(b)性質Fを持つが、¬(c)F-試みの結果としてFを持っているわけではない、すなわちまぐれでFを持てている。

難波がやっている作業は、私にはMag Uidhirの第一の条件、すなわち「(a)芸術-試みの産物である」の腑分けであるように読める。すなわち、難波があげる②③④はいずれも、適切な意図が伴っておらず、ゆえに「(¬a)芸術-試みの産物ではない」になるようなケースで、端的にnon-artの話であるように思われる。とくに、「④完全なる失敗」なんかはまったく試みてさえいないので、「失敗」と呼ぶのすら不正確である。この点、failed-artの問題圏に関してやや誤解があるように思う。

また、「③偶然アート」などでなんらかの物理的性質の有無を問題にするとき、難波は基本的にMag Uidhirの「(b)性質Fを持つ」かどうかに相当する話をしているはずだが、これは逆に実践的知識の話になっていないように思われる。作者にドウスレバ知識(意図)があるかどうかという話と、産物が性質Fを獲得したかどうかという話は、ひとまず別の話だからだ。

よりポジティブな話をするなら、「art」〜「failed-art」〜「non-art」までの場合分けは難波の四象限どころか、もっときめ細かく行えることになるだろう。すなわち、(a-1)トハナニカ知識の有無、(a-2)ドウスレバ知識の有無、(b)産物における性質Fの有無、(c)試みのおかげで性質Fを持てているのかどうか、という四つの条件に合わせて、2×2×2×2=16行のリストが書けるはずだ。(そのうち、私の見たところでは、「(¬b)性質Fなし」だが「(c)試みのおかげで性質Fを持てている」みたいな論理的に矛盾しているケースが、少なくとも6つは削除できる)

そして、そのうちのどこまでがちゃんと「芸術である」ものであり、どこからどこまでが「failed-art」で、どこから下が「failed-art」ですらない「non-art」なのか、私にははっきりと分からない。リストのどこに位置づけられる物体であっても、適切な文脈に置かれてしまえば、作者の試みやその成否に関係なく「芸術である」と言いうるというのが依然として私の直観である。この話は、後ほど村山のコメントに応答するなかでも触れる。

結局のところ、私としては理屈ではなく、「failed-art」の実例(少なくともそれと思しきもの)を出してもらってはじめて「failed-artは存在するのかも」という気にもなるというものだ。村山は、部分的にはこの方向でコメントしている。

作品が未完だとfailed-artなのか?:村山さんへの応答

上ですでに「弁護士を目指して司法試験を受けたが落ちてしまった人」の例を引用したが、村山は「トマト栽培を試みて種を植えたが枯れてしまった苗」の例を挙げている。

一方、私は果実を実らせること自体できず、苗を枯らしてしまうかもしれない。
私の手元には枯れた苗が残るが、これはトマト栽培の試みの失敗の産物であり、成果の価値の高低を云々できるものではない。
そして、芸術制作においてこれに対応するものこそ「failed-art」だと私は考える。

芸術作品を作りそこねるとはどういうことか:一つの理解 - #EBF6F7

このアナロジーについては、ふたつのコメントがある。

第一に、「トマトなりそこない=枯れてしまった苗」が存在するとしても、そこから「芸術なりそこない」も存在するはずだと推論することはできない。「トマトである」かどうかが、科学的な組成によって経験的に定められる事柄であるのに対し、「芸術である」かどうかは、そうではないからこそ知識やら意図やら込み入った話になっているのだ。「芸術である」という述語には「トマトである」という述語にはないややこしさがあり、トマト栽培からのアナロジーでは理解しがたい行為として、芸術制作がある。

第二に、枯れてしまった苗がMag Uidhir的な意味において「単純なfailed-tomato」であることは問題ないが、「複雑なfailed-art」に相当する「複雑なfailed-tomato」が私には思いつかない。水やりなどの意図した手段ではなく、偶然天候に恵まれてスクスクと育ったトマトを、意図された手段によってそうなったわけではないことから「トマトではない」というのはどう考えても不条理だ。よって、「トマトなりそこない」に関する探求も不十分なまま頓挫せざるを得ないため、「芸術なりそこない」と照らし合わせるのは困難がある。

とはいえ、アナロジーは私にとっても村山にとってもさして重要なものではないだろう。注目すべきは、「芸術である」ための成功条件をめぐる村山の主張である。

一つの問題は、〈成果の価値の高低〉以前の問題として捉えるべき芸術制作の〈試みの成否〉の基準をどう理解すればよいかという点である。
私はこれを完成概念に訴えればよいと考えている。
つまり、作品が完成すれば芸術制作の試みは成功だが、完成しなければ失敗である。
実際、芸術実践において評価の対象となるのは完成した作品である。
たとえば、画家が筆を投げ、未完に終わったキャンバスを芸術作品として評価するのは不適切だろう。

芸術作品を作りそこねるとはどういうことか:一つの理解 - #EBF6F7

村山のアイデアでは、完成していればとりあえず「芸術である」とは言えるものであり、完成しないまま手放されたものが「failed-art」に相当する。この主張についても、ふたつのコメントがある。

第一に、芸術-試みの成功条件として「完成したかどうか」を問題にすることは、実際のところ同じことを言い換えただけではないかという懸念がある。すなわち、私にはそれがバックパスになっていないように思われるのだ。「wにある性質Fをもたせようという試みが成功した」ことと、「性質Fを持たせることによってwが完成した」ことは、私には同じことを言っているようにしか思えない。逆に、「画家が筆を投げ、未完に終わったキャンバス」や「文筆家の部屋にいくつも転がっている紙くず」が未完ゆえにfailed-artだと述べることは、試み失敗ゆえにfailed-artであると述べることとそう違わないように思われる。

第二に、未完のまま手放されたことが芸術作品の失敗条件となる(そうやってできそこねたものがfailed-artである)という村山の直観に、私はいまひとつ乗れていない。村山は、「芸術実践において評価の対象となるのは完成した作品である」「画家が筆を投げ、未完に終わったキャンバスを芸術作品として評価するのは不適切だろう」と述べるが、ほんとうにそうだろうか。私の観察ではむしろ、未完のまま手放されたにも関わらず、「芸術である」とみなされ、芸術作品としての扱いを受けているものがあまりにもたくさん存在する

ミケランジェロは有名な《サン・ピエトロのピエタ》と合わせて、四つのピエタ像を作っているが、完成したのは《サン・ピエトロのピエタ》だけである。《フィレンツェのピエタ》はミケランジェロ自らハンマーでぶっ壊し、《パレストリーナのピエタ》は明らかに作りかけだと分かるほどずさんで(贋作の疑いもある)、《ロンダニーニのピエタ》が出来上がる前にミケランジェロは老衰で亡くなった。

三つのピエタはいずれも芸術-試みの産物だが、村山的な意味において未完である。しかし、それぞれ然るべき美術館なり博物館に置かれ、解釈や評価の対象となっているのは事実であり、その事実は私をして三つのピエタが、未完のまま手放されたにも関わらず「芸術である」と考えさせるのに十分なものだ。

『カラマーゾフの兄弟』も『城』も『失われた時を求めて』も未完だが、それゆえ「芸術になりそこねている」というのは私には奇妙に思える。三冊とも、ほとんど誰もが認める芸術作品だろう。もっとも、芸術作品は作っている途中からすでに芸術である、ということの帰結についてはもう少し考えなければいけないだろう。ともかく、完成したかどうかを芸術-試みの成功条件として据えるのは、私の見たところでは、外延的に厳しすぎるし、規範的なうまみもないように思う。

おそらく村山が考えているのは《フィレンツェのピエタ》や『カラマーゾフの兄弟』みたいな大げさなものではなく、ひっそりと見捨てられ、そのまま破棄され、決して日の目を見ない紙くずやキャンバスのことだろう。私としても、後に発見されて美術館などに置かれたり読まれたものを除き、それらの廃棄物が分類上failed-artであると思わないわけでもない。日常的な言葉づかいとしてもそれらは「芸術になりそこなった」ものなのだろう。そして、それらに対して「芸術でない」と述べるのが、informativeであり、trivialにはならないというのも納得できる気がする。このケースがfailed-artの実例であることに関しては、おおむね同意したい。しかし、上で論じた通り、完成概念に訴えるとこれらだけでなく広く芸術だとみなされているものの多くまでfailed-artだとしてしまうのが問題だろう。

具体的な修正案としては、

failed-artである ⇔ (1)芸術制作の試みが失敗した結果の産物であり(=未完であり)、かつ、(2)破棄ないし紛失によってその後もアートワールドにおいては受容されていない

というのはどうだろうか。見捨てられた紙くずやキャンバスのうち、後にも発見されなかったものは、後者も満たすのでfailed-artである。《フィレンツェのピエタ》や『カラマーゾフの兄弟』は後者を満たさないので、芸術足り得ている。《フィレンツェのピエタ》なんかは、アートワールドにおいて受容するために、ミケランジェロがぶっ壊した部分を後から他人の手で直したらしい。それらは、「図らずも成功した(芸術になりそこねそこねた)」芸術作品なのである。これは、少なからず「芸術扱いされていれば芸術である」という立場にコミットするものであり、ちょっと危ない橋を渡っている自覚はある。

すると、「failed-art」の訳語として村山の提案している「ボツ」というのも、ピッタリはハマっていないかなと思う。私の日本語の直観では、作品がボツかどうか(作者が公表しないという判断をしたかどうか)と完成したかどうかは独立であるし、アートワールドにおいて受容されているかとも独立である。完成したのにボツにされた作品や、未完なのに出展された作品は珍しくないはずだ。すなわち、

  1. 完成し、発表するよう判断し、受容されている:美術館とかにあるちゃんとしたアート

  2. 完成し、発表するよう判断したが、受容されなかった:自信作なのに生前も死後も相手にされなかったアート

  3. 完成したが、ボツにするよう判断し、しかし発見されて受容された:黒歴史アート(完成している分マシ)

  4. 完成したが、ボツにするよう判断し、受容されなかった:歴史から消えてしまったアート

  5. 完成しなかったが、発表するよう判断し、受容されている:見切り発車でコンクールに出したら入賞したアート

  6. 完成しなかったが、発表するよう判断し、しかし受容されなかった:見切り発車でコンクールに出したが、コンクール自体が中止

  7. 完成せず、ボツにするよう判断したが、発見されて受容された:黒歴史アート(重症)

  8. 完成せず、ボツにするよう判断し、受容されなかった:見捨てられた紙くずやキャンバス(failed-artの典型例)

という8ケースにとりあえずは分けられるはずだ。私の直観では、1〜5と7は「芸術である」が、8は「芸術ではない」failed-artで、ちょっと自信はないが6もfailed-artだろう。(念のため、端的なnon-artとは、そもそも芸術制作という試みの産物ではないので、上の8つとはまた別のクラスになる)

ということで、「failed-art」の訳語としては「未完であり、ボツになったりならなかったりしたが、ともかくアートワールドでは受容されなかったもの」としか言いようがないのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?