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芸術作品を作りそこねることはあるのか

先日の日記[2021/09/28]に書いたネタだが、もうちょっと膨らませたものをnoteにも載せておこう。

Mag Uidhir (2010)による「failed-art」の話がピンとこなくて、ここ最近ずっと頭をひねっている。Mag Uidhirの主張は、「情報としてトリヴィアルでない意味で〈芸術ではない〉ものがある」だ。ふつう、〈芸術ではない〉はたいした情報ではない。たいていのものは芸術ではないからだ。私の炊飯器も目黒駅も太陽も、分類的な意味では芸術ではない。

Mag Uidhirによれば、しかし、非芸術のなかには「failed-art」というサブクラスがある。ちょとわかりにくいが、「failed-art」は「失敗作」「駄作」のニュアンスではなく、非芸術、すなわち〈芸術ではない〉ものの一種とされている。失敗作や駄作は、価値が低いというだけで、いちおう芸術作品とみなされているはずだ。「failed-art」は価値は置いといて、そもそも芸術ではない。「failed-art」はちょうど、弁護士を志して司法試験を受けつつ試験に落ちたせいで〈弁護士ではない〉人、弁護士になりそこねた人(failed-lawyer)と類比的であり、芸術としての試みの産物でありつつ、その成功条件をクリアしていないような「芸術なりそこない」らしい。

Mag Uidhirは芸術であるための具体的な成功条件についてはオープンだが、それがなんであれ、適切な芸術理論は次のようなフォーマットでなければならないとする。

wは芸術作品である ⇔ wは成功した芸術-試み[art-attempt]の産物である。

より具体的には、

wは芸術作品である ⇔ wは、(a)芸術であるための性質Fを持たせようというF-試みの産物であり、(b)実際に性質Fを持ち、(c)まぐれではなく意図された手段を通して、すなわちF-試みの結果としてFを持つ。

というのも、従来の意図主義のフォーマット「wは芸術作品である ⇔ wは性質Fを持つよう意図されている」では、意図さえすれば芸術作品になるので、試みの成功・失敗が説明できず、「failed-art」なるクラスが存在しないことになってしまうからだ。これは、「wは芸術作品である ⇔ (a)性質Fを持つよう意図されており、(b)実際に性質Fを持つ」にしても解消されない。作品制作という意図的行為を、成功/失敗と結びついた試みとして理解してはじめて、「failed-art」をもカバーできる適切な芸術作品の理論が得られるのだという。

試みを組み込んだ上記のフォーマットに従えば、「failed-art」は次のように説明される。二種類の失敗に合わせて二種類あるらしい。

wは単純なfailed-artである ⇔ wは、(a)F-試みの産物であるが、¬(b)性質Fを持たず、¬(c)F-試みの結果としてFを持てていない。
wは複雑なfailed-artである ⇔ wは、(a)F-試みの産物であり、(b)性質Fを持つが、¬(c)F-試みの結果としてFを持っているわけではない、すなわちまぐれでFを持てている。

第一の単純な失敗は前述の通り、司法試験に落ちた弁護士ワナビーと類比的であり、第二の複雑な失敗は、司法試験には受かったのだが、実は採点ミスで合格ラインを満たしていなかった人と類比的らしい。Mag Uidhirによれば、レヴィンソンやステッカーの定義ではダメで、ザングウィルの定義はいい線いってるとのこと。

ピンとこないと言っている通り、私の整理が正確なのかどうかも自信がないのだが、ともあれピンとこない理由は、そもそも「failed-art」に関する明確な直観がないからだ。Mag Uidhirはとにかく「芸術作品を目指して作られたが、芸術作品にはならなかったものがある」という前提に基づいて話を進めるのだが、明確な具体例もなく、動機を共有することが難しい。そもそも「failed-art」にぴったりはまる訳語も思いつかないのは、日常的にその手のアイテムに触れていないからだろう。そもそも、芸術になりそこねたものがあるとしても、陽の目には当たらないはずなので、出会ったことがなくても仕方がないだろう。当然ながら、そんな非芸術のサブクラスがそもそも実在しないのであれば、従来の意図主義的な定義で事足りるのだ。(もちろん、そんな性質Fがありうるのか、意図主義でうまくいくかどうかは別の話)

規範的な話ということであればすとんと落ちるかもしれない。芸術-試みの失敗したケースは、「価値の低い芸術」ですらなく「failed-art」という非芸術として扱うべきだ、というわけだ。しかし、従来の意図主義もまた規範的にとれば、「良い芸術か悪い芸術かは語れるが、芸術ではないとは言えない」と応えるのではないか。実際、この手の意図主義は「bad art」が依然として〈芸術である〉という“直観”に応えるために設けられている。ゆえに、従来の意図主義によれば、Mag Uidhirの語る「failed-art」は、芸術のサブクラスである「bad art」として扱うべきなのだ。ここまでくれば、直観的にも規範的にもデッドロックということなのだろう。

「複雑なfailed-art」については次のような反論も思いつく。Mag Uidhirによれば、まぐれは成功のうちに入らないので、まぐれで性質Fを持てたものは、芸術としてカウントされない。しかし、芸術制作はこんなにもストイックで律儀なものなのだろうか。ふつう芸術家はまぐれだろうがなんだろうが、いかなる手段であろうと性質Fを持ったwを獲得し、それを芸術作品として提出することを意図するのではないか。特別な美的性質Fを絵画に持たせようと四苦八苦している画家が、ある日の夢遊病で描き加えた一筆によって性質Fを持つキャンバスを手に入れた場合、「よっしゃ、ラッキー!」ということで完成とすればいいのであって、「これはまぐれでできたものなので、芸術ではない……」と破り捨てるとは考えにくい。採点ミスで司法試験に受かった"弁護士"が実のところ弁護士なりそこないである、というのは分からない話でもないが、それと類比的なケースが芸術制作にもある/ないなら設けるべきだ、という方針はもうひとつ飲み込めない。すなわち、Mag Uidhirが設ける条件(c)「まぐれではなく意図された手段を通してFを持つ」は、「いかなる手段であろうと性質Fを得る」という意図を伴う試みである場合には役割を失うし、多くの芸術制作は実際のところこういうby any meansな意図を伴う試みではないかと思われる。いや、そんなことはないかもしれない。私は芸術家ではないので知らない。

あるいは、artworkの話をし続けても埒が明かないので、ロペスにならってthe artsやart-kindsの話をするべきなのかもしれない。すなわち、「failed-art」に関する直観がほとんどないので、かわりに「failed-painting」「failed-music」について考えてみるのはどうだろうか。画家が絵画を作りそこねたり、音楽家が楽曲を作りそこねることはあるのか。この場合は、「そんな事態は生じえない」とする直観のほうがより強くなるような気がする。

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