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『三体』がイマイチだったという話

1.

正月からちまちまと読み進めていた劉慈欣『三体』を読了。

数年前、三田で中国文学のゼミに参加していたので、かねてより『三体』の名前は知っていた。めちゃめちゃ話題の中華SFがあるらしい、オバマも愛読しているらしい、日訳は誰が手掛けるんだろう、と。

具体的な数字は知らないが、昨年7月の発売以降、日本でも相当売れているようだ。中文に身を置いていた人間からすると、中国の小説がこのような売れ方をするのはまさに異例の事態だ。莫言が村上春樹を抑えてノーベル文学賞をとったときもこんなに騒がれていなかったし、閻連科がおもろいおもろいと言われていたときも、盛り上がっていたのは普段から海外文学に親しんでいた層であった。

というわけで、よほど面白いのだろうと思い、修論提出即三体をかましたわけだが、僕には総じて気に食わず、見どころの少ない小説のように感じられた。

以下ネタバレ。

2.

『三体』は、文化大革命でひどいめにあったリケジョが人類への深い憎しみを抱えるところから始まる。それから怪しげな軍用基地が出てきたり、異世界転生VRゲームが出てきたり、粗野な敏腕警部が出てきたり、異世界が実在していて地球が脅かされたりと、陰謀あり殺しあり(色気はない)と物語は目まぐるしく展開する。

目の滑ること滑ること。つまるところ、『三体』が一向に求心力を持たないのは、文体が痩せに痩せているからだろう。繰り返し話題になる物理学のあれこれに対し、物語る言葉があまりにも軽いのだ。科学的な話にしても、アクション漫画で脇に控えたキャラが技を解説してくれるようなテンション感。

思うに、『三体』は映像ありきの小説だと思う。映画、漫画、アニメ的なイメージが先行しており、小説はただそれを記述しているに過ぎない。要はノベライズなのだ。理想的には映画、マンガ、アニメでありたいのだが、ちょっとむずかしいのでテキストで我慢する。この手の妥協が見え隠れする作品は総じてしょうもない、というのが私見だ。逆に言えば、この軽さに抵抗がなく、むしろ慣れ親しんでいる潜在的読者が日本には多かったということだろうか。

冒頭、文革のシーンは、重要人物であるリケジョがその後の破滅的な行為に走る背景として重要な場面だ。よほどひどいめにあって、人類への恨みをつのらせたのだな、と読者を納得させなければならない。しかし、そこで記述されている出来事は、文革を描いた作品をいくらか紐解いたことのある読者であれば、あまりにも陳腐だ。実際、そこには余華のような開き直ったユーモアすらない。凄惨な出来事をたんに凄惨なものとして描くなら、もうちょっと頑張れたのではないかと思われる。もちろん、文革が人類史における大惨事の一つであることは言うまでもない。しかし、『三体』はその凄惨さにフリーライドしているだけで、「文革について」何かを語っているわけではない。(『寝ても覚めても』の東日本大震災やALS描写が必然的でないのと同じ)

描写が浅いせいで人物に入り込めないのは、リケジョだけではない。乱暴者だが英俊豪傑で、主人公の精神的支えとなる警部は、B級映画に出てくるテンプレのキャラクターそのもので、物語全体を安くしている。主人公(というか物語の狂言回し)は主人公で、ラノベ小説の主人公を思わせるような無気力ヘタレ。何を望んでいるのかはさっぱり見えてこない(たぶん何も望んでいない)タイプの人物で、危機が訪れた次の瞬間には飲んだくれている。ひきこもりの天才数学者、美少女ファイター、大富豪の御曹司なのに素朴系の青年など、こっちが恥ずかしくなるほどペラペラのキャラクターが次から次へとスマブラ参戦する。

これはカテゴライズの問題であって、ハナからネット小説に準ずる作品だと思って読めば、もう少し好意的に読めたかもしれない。(もちろん、ネット小説を揶揄する意図はない)

3.

冒頭から一貫して描かれている、「物理法則の崩壊とカオス」「レベチの異星人とのコンタクト」といった主題は、現代思想で流行り(もう過ぎたか?)のポスト・ヒューマニティーズ、とりわけ「ハイパーカオス」「大いなる外部」といったカンタン・メイヤスーの概念群をいやでも連想させる。ハンパない力によって、科学という強固なパラダイムが無化されるという構図。ここにテン年代的なムードを読み解いて、「超越」とか「崇高」とか言っておけば、表象文化論の一丁上がりだ。

「人類はオワッテルので一度リセットしたほうがいい」という類の思想(物語で言うところの「降臨派」)は、加速主義やら反出生主義の界隈でも見え隠れする近年のトレンドだ。しかし、理性はもうちょい頑張れるんじゃないか、愛にできることはまだあるんじゃないか、といった問いを根本的に放棄し、「とにかく大洪水だ、硫黄と火の雨だ!」というのはほとんどテロリストの発想になる。ルサンチマンをこじらせて自暴自棄になることはまったくナンセンスなので、それだけは避けなければならない。

『三体』続編では、科学(地球)から超科学(三体世界)への逆襲という構図をとるのかもしれない。しらんけど。続編があるとはいえ、本書ラスト3ページぐらいで「どん底→希望」にムーブする展開は興ざめすぎて、あまり続きを読む気にはならない。結局のところ、3ページぐらいで態度や思想が変わるようなキャラクターたちなのだ。

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