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芸術作品における嘘、作者の意図と作品解釈、あるいは鑑賞自律主義についての覚書

2019年のBritish Journal of Aestheticsに掲載された論文で、Brandon Cookeは芸術作品による嘘を論じている。本稿は当論文を読んで考えたことの雑記だ。

伝統的に、嘘をつく[lying]ことは次のように定義される。(1)なんらかの内容pについて、「pは真である」と聞き手に信じさせようとする意図のもとで、話者[speaker]がpと述べる。(2)話者は「pは偽である」と信じている。私があなたに「p:太陽は西から昇る」と伝えれば、私は嘘をついたことになる。私はpとは信じていないにもかかわらず、あなたにそれを信じさせようと意図して発話しているからだ。

ちなみに、「話者がpと述べる」については、「pと言う[say that p]」では厳しすぎる(明らかに嘘であるケースを嘘としてカバーしない)という異論がある。Emanuel Viebahnは、画像を用いた嘘が可能であるという観察から、「pと言う」から「pにコミットする[commit]」への修正を提案している。本稿の話とはそんなに絡まないが、前にレジュメを切ったので以下参照。

さて、Cooke論文は次のような論証を取っている。

(1)嘘をついている芸術作品がある。
(2)嘘をつくことは定義上、話者の意図が関係する。
(3)現実意図主義は作品の意味に関して作者の意図に訴える。
(4)反意図主義は作品の意味と作者の意図を切り離す。
(5)現実意図主義は芸術作品による嘘を説明できるが、反意図主義はこれを説明できない。
(6)反意図主義は間違っている。

端的に言えば、反意図主義では芸術作品による嘘を説明できないので、反意図主義は間違っている、という論旨だ。私は基本的に反意図主義に与しているつもり(どのバリエーションを支持するかは決めていない)なので、(6)の結論は気に食わない。以下では、応答とまではいかない簡単なコメントを加えることで、当の論証にケチをつけたい。

まもなく明らかになるが、私が主に気になっているのは「芸術作品に嘘がつけるかどうか」でも「反意図主義の是非」でもない。


嘘を説明できなくてなにが悪いのか

Cookeは、「芸術作品による嘘・芸術作品を通して嘘をつくこと[Artwork lying / to lie via artwork]」の例として以下のような事例を挙げている。

1.ナチスのプロパガンダ映画『永遠のユダヤ人』(1940):「ユダヤ人は下劣な人種だ」という嘘をつく。
2.アメリカのプロパガンダ映画『Mission to Moscow』(1943):二次大戦中、アメリカとソ連の連帯を意図して作られる。「トロツキーはナチである」「ソ連によるフィンランド侵攻は正当である」などの嘘をつく。
3.ウォーカー・エヴァンスの暖炉の写真(1936):農民の暮らしを伝える名目だが、暖炉の上の小物はエヴァンズが配置したものである。
4.ロバート・キャパの《崩れ落ちる兵士》(1936):「ある兵士が狙撃されて倒れる瞬間である」という嘘をつく。実はセット撮影。
5.ジョン・シンガー・サージェントによるヴィッキー姉妹の肖像画(1884):かなり美人の三姉妹が描かれているが、知人への手紙では「醜い三姉妹の絵を書かされている」とこぼしている。
6.フェルメールの《信仰の寓意》(1672):カトリックを称える寓意を持つと思われるが、この時期にフェルメールが結婚を機にカトリックへの改宗を強いられたことを踏まえると、皮肉ないし嘘を含んでいるという解釈もできる。
7.ダンテの『神曲』:政争を経てフィレンツェを追放された後の作品。当時の政敵を地獄堕ちにしたり、事実無根の非難を含む。

これらのケースになんらかの嘘が含まれていることについては同意しよう(正直、ミスリーディング[misleading]の範疇を超えないものが多いという直観はある)。かつ、ここに嘘が含まれていることは、作者の意図を参照しない限り指摘できないことについても同意する。現実意図主義は作者の意図を参照し、反意図主義は作者の意図を切り離す、という解説にもおおむね問題はない。ゆえに、現実意図主義はこれらに含まれている嘘を説明でき、反意図主義は説明できない、という評価まで共有しておこう。「だからなんだ」というのが私のコメントだ。すなわち、前提の(1)から(5)をすべて認めたとしても、(6)という結論に至るにはまだ飛躍があると思う。すなわち、

(5.5)ある芸術解釈理論が、芸術作品による嘘を説明できないのだとしたら、その理論は間違っている。

という隠れた前提があり、これは疑わしいとまではいかないにしても、自明ではない。とりわけ、当の前提に立って諸理論を俯瞰することは、現実意図主義にせよ反意図主義にせよ、これら既存理論の本来の目的を捉えそこねているように思われる。

例えば、

(*)あるコミュニケーション理論が、嘘を説明できないのだとしたら、その理論は間違っている。

と述べるのであれば、私はこれをもっともな見解だと思う。「嘘」を含むケースはコミュニケーション理論にとって説明すべきデータであり、これを説明できないことは理論的欠陥である、というのはもっともらしい。例えば、「意味はなんであれ辞書的な意味であり、それに尽きる」という理論は、話者の意図を参照しないことによって嘘を説明できない。ゆえに、伝統的な嘘の定義をいじるのでなければ、やはり理論に不備があるということになる。

芸術作品による嘘を説明できないことは、ある芸術解釈理論にとっての不備なのか。これに関しては、ふたつの見解があり、ひとつは私がもっともらしいと思っている(*支持しているわけではない)ものであり、もうひとつはここでCookeが暗に支持しているものである。端的に言えば、前者は「芸術鑑賞[appreciation]」に関する自律主義であり、後者は相互依存主義である。くどいので、前者を立場Aと呼び、後者を立場Bと呼ぼう。

立場Aによれば、芸術作品の「芸術作品としての[qua artwork]」意味理解や価値判断といった、ひろく鑑賞と呼ばれる行為は、ある程度の自律した目的や評価基準や手段においてなされる。実際、この「鑑賞本来の目的」を明言することは難しい。おそらく、それは制度的なものであり、また歴史的なものであろう。ある文脈における正しい鑑賞が、別の文脈における間違った鑑賞であることは疑い得ない(疑う人もいるだろうが)。立場Aによれば、しかし、目的や手段における「鑑賞」の自律は規範的である。とりわけ、「認識論的基準:作品が現実世界において正しいことを伝えているかどうか」や「倫理的基準:倫理的に好ましくないなにかを意味内容ないし制作プロセスに含んでいるかどうか」といった判断基準は、規範的に言っても「鑑賞」の是非とは独立したものだ。まったく事実無根のデタラメを伝えており、それによって特定の集団を侮辱するような作品は、依然として「芸術的に[artistically]良い」可能性がある。

立場Aが取り急ぎ付け加えるべきなのは以下である。「芸術的に良いか悪いか」というのは、芸術をめぐる制度的・歴史的文脈によって左右されるが、このことは、作品の販売や展示に関する規制論とは完全に両立可能だし、社会的には両立可能であるべきだ。すなわち、芸術的に良いことは、嘘をついていることや、差別的ななにかを含んでいることを全く正当化せず、場合によっては販売・展示の取り下げが社会的に要請される。芸術は特別だから許される、などと言いたいわけではない。言いたいのは、芸術作品がなんらかの仕方で悪いからといって「"芸術作品として”悪い」とは限らない、ということだ。

立場Aは、芸術鑑賞としての基準(芸術作品を「芸術作品として」理解し判断する基準)と、その他の基準の独立を訴える。一方、Cookeが支持していると思しき立場Bによれば、両者は不可分であり、芸術における嘘やこれに対する倫理的批判といった実践を説明できないことは、ある「芸術理論の」不備である。実際、私は立場Aがもっともらしいという直観を持っているが、立場Bの理屈も完全に理解可能である。ちなみに、立場Bは「相互作用説」としてLopesが『Sight and Sensibility』で擁護している立場でもある。要は、鑑賞自律主義に反する立場は論理的に可能であり、現に支持者がおり、私にも理解可能だということだ。

残念ながら私は、立場A・Bいずれを支持する材料も欠いているため、Cookeの隠れた前提に正面から応答することはできない。少なくとも、オプションとしての立場Aは現にあり、かつ、この立場に立ってCookeの挙げる事例を一貫して説明することも可能だと思う。むしろ、例としてドキュメンタリー映画や報道写真を挙げていることは、Cookeにとって悪手だったと思われる。それらのジャンルが、部分的には「なんらかの真なる内容を伝達する」ことを本分としていることは、誰も否定しないだろう。問題は、ドキュメンタリーないし報道としての達成が芸術的達成とは限らないし 、それらとしての失敗が芸術的失敗とは限らない、という事実だ。『永遠のユダヤ人』や《崩れ落ちる兵士》が故意に間違った内容、作者すら信じていない内容を伝えていることは、当の人工物の認識論的欠陥(ひいては倫理的欠陥)だろうが、芸術的欠陥ではない。

ここで少なくとも私の理解によれば、作品解釈をめぐる諸理論、現実意図主義、仮説意図主義、価値最大化理論、いずれの本来の目的も、どちらかというと認識論的なものというより芸術的なものである見込みが高い。「文学作品における意味の理解」は、そこに書かれている文言を通して作者が伝えたい内容の特定に尽きるものでは明らかにない。とりわけこの目的上の差異によって、ふつうのコミュニケーション理論と芸術作品の解釈理論は区別されるし、規範的にも区別されるべきだと思う。これは、最も現実意図主義寄りの立場を取る場合にも、踏まえるべき差異だ。芸術実践(作品を作ったり、展示したり、解釈したり、評価したり)は端的なコミュニケーション以上のなにかではなく、意図をめぐるコミュニケーション理論は、芸術実践を相手取る上でも100%有効である、と考える現実意図主義者はおそらくいない(いるとしても、彼/彼女はたぶん“美学者”ではない。これは情報量のないジョークだ)。

なぜ立場Aをとるべきなのか。私がこちらを規範的に望ましいと思う理由のひとつは、これが特定作品の是非をめぐる論争をクリアにしてくれるからだ。いま、特定の作品がなんらかの仕方で「悪い」と言われ、規制すべきかどうかが争われているとしよう。あいトリケースでも宇崎ちゃんケースでもなんでもいい。問題は、争点になっているのが芸術作品の「芸術作品としての」身分なのか、その他のなにかとしての身分なのか、という点だ。少なくない状況において、「芸術作品としての価値はともかく」という前置きは、余計ないざこざを回避し議論の焦点を明確にするだろう。「芸術的だけど非道徳的」「いろいろ勉強になるけど芸術としてはイマイチ」といった価値判断を許容することは、少なくとも私には、言説空間全体にとっての効用が多いように思われる。最悪なのは、「芸術的に良いから不道徳ではない」「かなり客観的に撮影しているので芸術写真としての価値が高い」といった混乱であり、これは相互依存主義がもたらす「から」「ので」に責任がある。

さて、反意図主義に与するならば、上述のケースに含まれる「嘘」を見逃してしまうかもしれない。「それでなにが悪い、そんなもの説明する気はもともとない」というのが、自律主義を取った場合に出てくるオプションだ。あるいは、もうちょっと穏健な態度を取るとしても、「それを説明するのは他の人の仕事です」で十分だ。すなわち、「鑑賞」に関しては反意図主義を取りつつ、作品の他の側面(例えば認識論的価値)を考える上では意図主義を取る、という線は残されているし、かなり妥当に思われる。いずれにしても、「嘘を説明できない」ことから「反意図主義は間違っている」を導くCookeの論証には飛躍がある、というのが私からのコメントだ。

(ところでオプションとしては、固有の芸術的な価値基準をそもそも認めない立場Cも考えられる。この場合、「芸術作品としての価値」と呼ばれているものの内実は、すべからく他のなにかとしての価値に還元される。支持者は普通にいそうだが、私は知らないので、ここでは検討しないことにする)


反意図主義はほんとうに嘘を説明できないのか

ところで、上述の反論は(1)〜(5)を認めた上で(6)に至らない道筋を示すものだが、よりシリアスな反意図主義の立場から(4)を認めた上で(5)は認めない、という反論も考えられる。すなわち、反意図主義を取る(作品解釈から作者の意図を切り離す)からといって、芸術作品における嘘を見逃してしまうとは限らない

反意図主義のバリエーションについては、仮説意図主義A(Levinson 1996)、仮説意図主義B(Nathan 1992)、内包された作者の意図主義(Currie 1990)、価値最大化(Davies 2005)が検討されている。紙面の都合上、各立場に対する不備の指摘は限られているが、例えば、Cookeは次のような問題点を挙げている。LevinsonやDaviesは作品の芸術的価値を最大化する解釈を優先するが、嘘をついているという解釈は、作品の芸術的価値をむしろ落とすことに繋がる(さしあたり相互依存主義を認めよう)。しかし、無理に価値が最大となる解釈を優先するなら、それは間違った解釈になる。よって、価値最大化という方針は間違っている。

いまさらだが、価値最大化理論についてはDavies論文のレジュメを切ったことがあるので、適時参照されたい。価値最大化理論は、キャパの写真に最大限の芸術的価値を付与せんがために、「捏造ではない」という解釈を捏造してしまうのか。これはいわゆる『プラン9』問題だ。現実意図主義者によれば、仮説意図主義や価値最大化理論が許容する解釈は広すぎる。『プラン9・フロム・アウタースペース』が空前絶後の駄作であることは疑い得ないが、反意図主義に立つ解釈者はポストモダンやら撹乱やらの理屈をでっち上げることで、当の作品に不当な芸術的価値を付与してしまう。仮説意図主義や価値最大化理論はほんとうにこういった解釈を捏造してしまうのか。答えはノーである。詳説はしないが、部分的にカテゴリー意図に訴えるか、競合する解釈間の一貫性・合理性を持ち出すことで、反意図主義であっても現実意図主義者が好むようなそれと同じ(正当な)解釈にたどり着ける。すなわち、作品解釈から現実の作者が抱く意図を切り離すとしても、そのことからただちに「キャパの写真は事実を伝えている」とか「『プラン9』は傑作だ」といった不都合な解釈は導かれず、これらを回避するためのオプションは反意図主義者にとっていくらでもある。端的に言えば、洗練された反意図主義は、芸術作品に含まれる嘘にたどり着く道筋を示しうる(¬5)。ゆえにCookeの攻撃(反-反意図主義?)は、あえて藁人形論法を仕掛けている可能性を差し引いても、いまだ十全なものではないというのが妥当な評価だろう。


本稿が言っていること

芸術作品の鑑賞に関して、自律した目的・評価基準・手段などを認める限り、反意図主義が芸術作品に含まれる「嘘」を説明できないことはなんら問題にならない。

反意図主義を取るからといって、芸術作品に含まれる「嘘」を見逃してしまうとは限らない。これをカバーする仕方で修正することは論理的に可能だし、具体的なオプションも提示されている。

これらのいずれかが正しいとすれば、「反意図主義は間違っている」というCookeの主張は不当だということになる。

「芸術的に良い/悪い」を、「情報として正確である/不正確である」「倫理的問題を含む/含まない」から切り離して担保することは、芸術規制をめぐる論争をクリアにしてくれる。筆者はこの「鑑賞に関する自律主義」にシンパシーを感じている。


本稿が言っていないこと

芸術は特別なので、不正確な表現、差別的な表現を含んでいるとしても許される。

芸術作品が嘘をついてなにが悪い。

作者の意図は、あらゆる場面においてどうでもいい。

『永遠のユダヤ人』や《崩れ落ちる兵士》には芸術的価値がある。

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