上から目線にならないための書き方、その効用と副作用について
上から目線の文章にならないためのテクニックの一つとして「自分を落とす」というものがある。
例えば遠藤周作さんの随筆を読んでいると「愚鈍な私などは」「浅はかな考えの私は」など、自分を卑下する言い回しがよく見られる。
遠藤周作さんは、言わずと知れた日本を代表する大作家である。
どこの世界に遠藤さんを愚鈍だとか浅はかと思うやつがおるねんという気にもなるが、確かに「全知全能の俺様の言葉を聞け!」となると、どんなに立派な人の言葉でも、読み手の心には「お前は何様やねん」と少なからず抵抗が生まれやすい。
その一方で、わざと一回自分を落としてから本題を切り出した方が、読み手は書き手の主張をスッと受け取ることができる。遠藤周作さんほどの、どんな書き方もできる作家があえてこの手法で書いているところに、彼の頭の良さが垣間見える気がする。
こう書くと「自分を落とすなんてかっこ悪くていやだ」という方もいるだろう。
確かに私もこの手法を多用しすぎて、一時期おかしなコメントやメッセージが来ることがあった。遠藤周作さんほどの名声も立場もないいちnoterの私が自分を落としまくって書くと、言い方は悪いが「こいつは攻撃しても大丈夫そうだ」と思う読者の方もいたようだ。
上から目線の印象を読者に与えたくない。だからといって私も読み手から攻撃されたいわけではない。
書き手と読み手がお互いに安心安全な関係で言葉を発したり受け取るためにはどうしたらいいのか。そのアンサーとして、私は「意図して、自分を落とす」という手法を推奨している。
これはどういうことかというと「本当に自分が伝えたいことを読者に伝える」という目的のために、あえて自分を落とすという選択をわざわざするということだ。
最初にいってることと同じように聞こえるかもしれないが、意図は伝わる。
例えば子どもが悪いことをしたときに、感情に飲み込まれるままに「だめだろう!」と子どもに怒鳴りつけるよりも、「叱る」「話し合う」「放置する」などいくつもの選択肢の中から「いや、ここはあえて大声で怒った方がいい」と選択してから怒るのとでは、子ども側が受け取るインパクトは全く違う。意図は伝わる。正確に言えば数ある選択肢からその意図を選んだ覚悟は人に伝わるということだ。
読み手を見下すように偉そうに書くことも、傷つけるように書くこともできる。その中であえて自分を落とすという選択肢を選んででも伝えたいことがある。その想いは文章でも読み手へ伝わると私は思う。
ただ物事にはタイミングがあるように、伝わるのには時間がかかるときがある。どんなに気をつけて書いても「こいつバカじゃん笑」と受け取る人も、世の中には本当にいる。文章は投稿ボタンを押した瞬間から読者のものであり、それをどう受け取るかも読者の自由だ。
自分を落として書く。これは読み手にスッと主張を受け取ってもらうためのとても便利なテクニックだが、最終的には「すべての人にわかってもらえなくてもいい、一人でもいいから誰かの心に届いてほしい」という意志というか胆力も必要な気がする。
結局「こうすれば必ず!」なんて魔法のテクニックはないのだ。だからこそ自分の言葉が1人にでも届けば奇跡だし、それを夢見て書き続けてしまうのが作家という生き物なのかもしれない。
上から目線の文章を避けるコツを知るワークショップはこちら。