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エッセイに嘘は許されるか?書き手に必要な誠実さについて

先日行った文章ワークショップで「本当のことを本当のまま書いて、暗くなってしまうときはどうすればいいか」というご質問を受けました。

嘘を書いてはいけない。でも事実をありのまま書くとなんだか暗くなってしまうとき、どうしたらいいのか。

私の場合ですが、辛かった体験のエッセイを書くとき「それでも世界は美しい」という描写をラストにいれるようにしています。

例えば先日アップしたこちらのエッセイ。

実際にはこの日は一日中どんよりとした曇り空だったのですが、ラストは晴れたことにしてしまいました。

嘘はいけないことですがこのまま終わるのではあまりに救いがない。事実、持病の悪化という現実を時間を置くことで受け入れることができた私の心には、一瞬本当に晴れ間が見えた気がしたのです。

文章は起承転結がいいとか、サンドイッチ型がいいとか、いろいろな手法が勧められていますが、私がおすすめするのは「書きながら自分の内面にグッと深く入っていく」という手法です。

この方法だと自分の文章がどこに着地するか最後まで書いている自分もわかりません。ただ、自分の闇から目を背けずに書いていると、自分の心に癒しが起こる瞬間があります。

嵐の中を泳いで、泳いで、泳ぎ切ったとき、夕日の見える岸に流れ着くような、おのずと物語に光を差したくなる心地になります。
そこまで書いて、辛い現実の中でも自分にだけは見えた美しい景色を入れていくという手法がいいのではないかと思っています。

もちろん嘘を奨励してはいません。大切な人と関係を育む上で、嘘を書いてはいけないというのは大事なことです。
しかし人は文章に事実や正確性だけを求めているわけでもないのが難しいところ。

嘘のない自分の苦しさをつづってそのまま終わりというのは、一見正直でよいかもしれません。しかしそれは、読者をどしゃ降りの雨の中に置いてきぼりにするようなものに近いと私は思います。

自分の闇の中に読者を引きずり込んだ以上、せめて光が見えるところまで読者の手を放さず引っ張っていくのはある意味書き手の義務というか、最低限持っているべき誠実さではないかと考えます。

ある文章の先生は「優れたエッセイの9割は虚構」と言い切っていました。これはちょっと言いすぎな気もしますが、noteを始めて1年と半年、だんだん、人は血流を感じない事実よりは、血しぶきが見えるような虚構を求めていること。そして本気で書いた虚構は真実に化けることもなんとなくわかってきました。

現実はどうしようもなく苦しい。
だからこそそんな世界で咲いている小さな花に光を見いだせる人こそが、表現者と呼ばれるのかもしれません。例えその花が模造であったとしても。




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