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リトリートのススメ

旅行が好きで、学生時代はバイトをしては友だちと観光地を巡った。社会人になってからはサービス業に就職し学生時代の友だちと休みが合わなくなったこともあり、あまり旅行に行かなくなった。

そんな私が最近よく行くのが「リトリート」である。
リ(再び)トリート(整える)、旅を通して自分とつながり直すことを目的としたものだ。観光地を巡るというよりは自然豊かな土地でのんびりと過ごすことが多い。

私は友人にコーチが多いのだが、コーチでリトリートを提供している人は結構多い。彼らが主宰するリトリートはただのんびりと過ごすというより、対話の時間を設けたり、旅という非日常の力を利用して自分とつながることを意図している。

私が生まれて初めて参加したのが「森のリトリート」というプログラムだった。
3日間森で過ごすだけの単純なプログラムなのだが、森という多種多様な生物にあふれた世界にただ身を置くだけで、自分と深くつながっていく感覚があった。

リトリート初日の夜、ふと「今はいいけれど、日常に戻ったらまたいつもの自分に戻ってしまうのかな」という想いが湧いた。
ちょうどこのころ私は会社勤めが苦しくて、休日は色々なワークショップや講座に参加していた時期だった。友人に「仁美さんいろいろ熱心に勉強してるみたいだけど、全然変われてないよね」と言われたタイミングでもあった。

森のリトリートでは夜、焚き火を囲んで参加者同士で話す時間があり、私はそこで
「今は森の中にいるからのびのびと自分らしくいれるけど、会社や家族といった日常に戻ったら、いつもの縮こまった自分に戻ってしまうのでは」と不安を出してみた。

焚き火からパチパチと燃える音がする。そのとき場のリードをしていた人が、ぽつりと

「日常にも、森はあるよ」

と一言だけ呟いた。それっきり彼女は何も言わず、焚き火の音と白い煙の香りが場を満たしていた。

それからも私はリトリートにはまってしまい、年に1回は参加するし、これまで2回ほど自分でも主宰してみた。

そうして日常と非日常を行き来していく中で、日々色々なことはあれども何だかんだで人生はいい方向に動いている気がするし、旅に出るたびに「やっぱり自分とつながる時間は意識して持った方が良いなあ」と強く思う。

確かに楽しいリトリートに一回いったくらいでは、厳しい現実は変わらない。でもそんな厳しい現実の言いなりになるのではなく「自分はどうしたいのか」という問いを思い出し、人生の主導権を自分に取り戻そうという心の動きは、リトリートで培った力によるものだと私は思っている。

観光、という言葉は「光を観る」と書く。何かに光を、意味を見出す力は、見知らぬ土地や非日常の空間で一層鍛えられる。「日常の中にも森はある」というのも、望まない現実の中でも意味や自分らしさは見出せるということなのかもしれない。

日常に非日常を見出し、非日常の中で日常の尊さを見つめる。ああ、また旅に出たい。