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『Troppoトロッポ~異世界の冒険と3つの扉』

ー序ー

山道は、夕方からの煙るような雨で視界も足元も悪い。

イングランドとの戦争は百余年も続いた。
ブリテンの兵士たちは引き上げていったが、代わりにあちこちで内戦が起こり小さな村々では略奪が横行していた。多くの人たちは城壁の内側に避難し、その外では次々と集落が消えていった。
戦争やペストで疲弊した国力の回復を計る王朝によって、教会もまた時代の潮流に飲み込まれていた。教区内も汚職や政略にまみれ、神父たちの興味は人々より自らの財に向いていた。私は大学で神学と医学を修めたのだが、そんな教区での仕事に半年と留まることができず、戦争と混乱の中で没した集落を巡り独自の文化や生活の跡を見て回り記録する旅へ出た。教会での仕事より民俗学や薬草学にこそ意義を見い出し、父の興した事業を継いだ兄の援助もあって好き勝手することができたからだ。

日がすっかり落ちても雨は止むことなく降り続け、外套の中までぐっしょりと濡れた衣服が貴方の体力を少しずつ奪い続ける。

母とは違い、兄は私に事業を手伝えとは言わなかった。
先祖から受け継いだ土地で父は財を成し、急死したのちは兄がその土地を受け継ぎ新たな事業を立ち上げていった。
「これからはパステルの染め物が流行る。」
そういって田畑を全てをパステルに植え替えた兄の才覚は見事なもので、我が家はかつてこの辺りを治めいた先祖の頃よりも隆盛を誇っていた。そんな兄が、不器用で人付き合いも苦手な私を旅へと後押ししたのもまた才覚の為せる業であったと言えるかもしれない。教区の仕事と違って、この旅は二年もの間没頭することができていたからだ。兄から譲られた愛馬は幼い頃からの唯一の友で、この二年、数々の困難を共に乗り越えるに精一杯の労を惜しまず私を支えてくれた。

馬が死んだ。

遠く、トゥールーズ南部の村を目指していたが、旅程を誤り煙霧(えんむ)けぶる山中で夜を迎えてしまった私たちがぬかるみに足を取れられ崖から落ちたのは自明の理。哀れにも馬は絶命し、私だけが生き残った。谷底のせせらぎが私と愛馬の間を生と死を別つ狭間のように流れ、彼を彼岸へと連れていった。無謀とはなんと恐ろしい物なのだろう。こんなにも無慈悲で不可逆な絶望を彼の元へと呼びこんでしまった。
無二の友の死は、私を打ちひしがれさせるに十分であったが、孤独と不安を呼び起こすにもまた十分であった。二年の経験が頭の中で警鐘を打ち鳴らし、濡れて冷たくなった衣服が悲しみより恐怖でこの身を震わせた。
急ぎ山を下りなくては。
辺りに散らばった荷物の中から旅に欠かせぬ物だけを選び出し、急いで肩掛けのカバンの中に詰め直した。引き返し、山を下りよう。馬を無くしてはもう進むべくも無い。そしてあまり猶予も無い。準備を整えてから一旦カバンを下ろし、周囲に咲くラベンダーと幾つかの草花で彼を覆うようにして弔いうと、私は再びカバンを背負い山を下ることにした。

山道に戻ることはできそうにない。

谷はそれほど深くは無かったが、崖は険しく崩れやすかった。
もとの道に戻ることは到底できそうに無いと思えた。
私は、谷底の流れを頼りに麓を目指すことにした。雨はいつの間にか小止みになっていたが、それを補うかのように霧が辺りに立ち込め冷え切っていた空気は逆に蒸し返し暑くさえ感じるようになっていた。霧の向こうにはうっすらと朧月が現れ、それも目印に加え不確かな足元を一歩一歩確かめながら沢を下りはじめた。早瀬に沿い、時によどみを渡って対岸を歩き帰路を急いだ。日暮れからは1時間ほどしか経っていないはず。麓まで出れば遠方にはまだ町の灯りが見えるかもしれない。期待に望みを持って気持ちを奮い立たせたが、いつになっても開けぬ森の木々にそれはすぐ苛立ちへと変わっていった。せせらぎはせせらぎのまま、広くも深くもならず、谷を越えても横たわる岩を越えても行く先の景色は変わらぬまま。あのよどみはさっきも渡ったのでは?あの茂みは見た気がする。不安は不安を呼び、私はいつの間にか小走りに沢を下っていた。
それがいけなかったのだろうか?蒸し暑く感じていたはずの雨が外套の中のタブレットやリネンのシャツも冷たく濡らし、気付かぬうちに私の体力を奪ってゆく。小走りだった歩みはいつしか朝の散歩のようにゆっくりしたものになり、やがてトボトボ進むのみとなっていた。足元の小川がいつの間にか無くなっていたことも、目印の月が見えなくなっていたことも、気付かぬままに、私は濃霧の中を彷徨い、そして力尽きた。

貴方は霧深い森の中に倒れている。
地面は苔むし道も無く、低く茂った藪が貴方を覆い隠している。谷も、沢も、月さえも無く、茂みと虫の音だけが辺りを満たしている。薄く開いた目には何も映っておらず、薄れる意識の中はすでに空っぽになっているようだ。
貴方はゆっくりと目を閉じた。
白む空の下、徐々に晴れゆく霧の向こうに小さな町が見えていたというのに…


貴方は目を覚ました。
ぼーっと天井を眺めながめていると、違和感が予期せぬ来訪者の様に次々と訪れてきた。


「ここはどこだ?ここ(自分が寝ている場所)はどこだ?ここは...」
黒々とした梁に、これまた黒々とした板を渡した天井。質素な土壁には板戸の開け放たれた窓がはめ込まれ、幾つかの道具が下げられている以外調度品も家具も何も見当たらない。ただ1つ、私が寝ているベッドの横には小さなサイドテーブルがあり、その上に大きな木のお椀が載っていた。
起きようと手足に力を入れたが、しびれたように動かずベットの中でもぞもぞとイモムシの様に体をくねらせるだけだった。その音に気が付いたのか、ベッドと反対の壁にある頑丈そうな扉から一人の男が現れた。
「やっと目を覚ましたな。」
低く、石を打ち合うような声をしたその男は、深い彫りとシワの間から私を覗き込みそう言ったようだった。
「少し待っておれ、何か食べるものを持ってこよう。」
スペイン語とも少し違うようだったが、彼の言うことはなんとなく理解できた。扉を閉めまた奥へ引っ込むと、その手に大きな木製のポットとカップを握って戻り、カップとサイドテーブルのお椀に水を注いだ。
「まずは顔でも洗っておけ。」
そして、それらをテーブルに置いていくと再び扉の奥へと引っ込んでしまった。しばらく彼は戻らなかったが、私はしびれる体に再び力を入れなんとか起き上がり、お椀に注がれた水で顔を洗い、カップの水には手を付けずに男が戻るのを待つことにした。水は旅先で手を付けて何度も生死の境を彷徨ったことがある。彼が戻ると、今度はその手に少し小ぶりのお椀とパンが握られていた。
「食べたら話を聞かせてくれ。」
それらを差し出すと、彫りに埋もれた用心深そうな目でちらりと私の方を見やり、男は椅子を持ってきてベッドの横に腰をおろした。用意された食事は質素そのものといった感じだったが、それらを前にすると自分が如何に空腹だったかが分かった。シーツから引き抜くように腕を出し、お椀を握りしめてその中のスープを口に運んだ。次いで膝の上からパンを持ち上げ、それをスープに浸しまた口に運んだ。しかしその度ぽろぽろとこぼして掛けられたシーツを汚したが、男はそれらを丁寧にすくうと椀の中へと放り込んできた。だが、それにも構わず、徐々に感覚の戻ってきた手をフル稼働して一気に食事を平らげた。
私が食事を終えると男は黙って椀をテーブルに移し、じっとこちらを見ながら、
「お前は何者だ?」
そう尋ねてきた。

男が貴方を見つめる眼つきは常にいぶかし気で、そして1つ1つ確認するように質問を投げかけてきた。

私は男の質問に丁寧に答えていった。
彼が私を怪しんでいるのは確かだ。しかし同時に私を助けようとした人物でもあり、何とか素性を探り安心を得ようとしているのだ。
旅の中でこういったことには慣れていたので、とにかく疑いを持たれないように慎重に言葉を選んで事の次第を話していった。幾つかの国の言葉を学んだ私と違い彼は私の話を理解するのにだいぶ苦労しているようだったが、身振り手振りを交え必死に彼に伝えようと努めた。あの食事は体に活力を戻し、これにひと役買ってくれていた。
ひと通り話し終えても彼の表情は何一つ変わらなかったが、「助けてもらったことと食事の礼に」と銀貨を渡そうとすると、その顔はさっと曇った。
「そんなものは要らない。」
そう言った彼の言葉にはじめ、私は失礼なことをしてしまったのかと思った。しかし、彼は(というか「この町の全ての人たちが」ということを後々知ることになるのだが)このギラギラと光る円盤を何か禍々しい物とでも思ったようだった。そしてよくよく聞いてみると、ここには銀貨はおろか「貨幣」自体流通していないようなのだ。確かに、中央から遠く離れた辺境では貨幣がほとんど流通していないこともしばしばではあるが、その存在すら知らないというのは初めてだった。もしかしたらここは、未だ中央の支配を受けたことが無い未開地なのかもしれない。そのことに私は大きな胸の高鳴りを覚えた。言葉も違う、そして文化も違う場所。それは私の研究にとって大きな発見になると確信できたからだ。
私はもっと話を聞こうと思ったが、彼の表情と心中の不安が戻っていないことを察し、荷物の一部を預かってもらい外に出てみることにした。


扉を開けると、そこは『ジュビーの町』だった。

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