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「労働は善である」という呪いについて


今日は久しぶりにパソコンを使って文章を書いている。どうしてもスマートフォンでは書けなかった。

書けなかったということは、書きたいことがあるということだ。書きながら考えるのではなく、考えていることを書いてみたかった。労働について。呪いについて。

あれ?なんか「罪悪感」感じてない??

話の始まりは日頃自分が感じている「罪悪感」に気づいたことだった。

僕は企業やチームなどに所属せずにひとりで働いているので、毎月安定して仕事がはいってくるわけではない。僕は労働者ではないから、月単位でお給料が入ってくるわけでもない。

儲かる月があればそうでない月があるのも当然で、トータルで利益が出たのかどうかが大事だ。

この生き方を長く続ける上では「仕込み」が大事だ。暇な時期(ちょうど今月)に基礎体力作りをしっかりやってないと、いざ仕事が来た時にチャンスをさばけない。

ピークタイムに合わせて焼き鳥屋さんが店を開ける前に串を打つように、僕たちコーチはクライアントの前に立つ前に自分の価値観や信念を磨きに磨いておかなければいけない。

そう考えているし、実際にそうやって6年間生きてきた。なのに、心にソワソワしたものが残るのはなんでなんだろう。

僕は「これはひょっとして呪いなんじゃないのか?」と考えはじめた。どう考えたっておかしい。毎月の収入を必要以上に気にする自分がいる。

手元に十分なお金はあるのに月単位で売上を管理しようとする自分がいる。そんなこと気にしたって意味がないことはわかっているはずなのに。

なんだこの罪悪感は。理に適っていない。必要のないことに対して執着している。わかっているのに。まるで誰かから呪いをかけられているみたいじゃないか。呪い…?


「労働は善だ」という呪いがあると仮定して考えてみる


そこで僕は仮定を立てた。自分に「労働は善だ」という呪いがかかっているとして考えてみよう。

そうすると「労働しないことは悪だ」という概念も同時に成り立つことになる。

ちなみに僕にとっての労働とは「なんらかの仕事に従事し対価として毎月給料をもらうこと」だ。


今の僕の仕事はどうだろう。「依頼が来て、仕事をして、報酬をもらう」という一連の流れは労働の定義に当てはまるが、

そうでない時間「依頼が来るのを待っている」「自分がやるべきだと思ったことをやる」については、報酬が発生するわけでもなんでもない。

つまり労働していない。「労働しないことは悪だ」という前提に基づくと、僕は悪いことをしている。つまり罪悪感を覚えるのは当然のことである。

だとしたらいったい誰が?誰が僕にそんな呪いをかけた?労働しなくなって6年も経つのにまだ発動し続けるような強い呪い。

なんだか自分が怖くなった。自分の意志でやっていたと思っていたことが他人からの働きかけに影響されている。

いったいどれが本物でどれが偽物の自分だ?恐ろしい。


「労働は善」は疑うことすら許されない

10年ほど前に「働いたら負けかなと思っている」という言葉が流行ったことがあった。今冷静になって考えるとこれもおかしい。(調べたら2004年だった)

個人がどう思おうが個人の自由なはずだ。なのに世間はこの発言をした人のことを笑い、ネタにした。

笑うと言うことはそこに「おかしさ」があるということで、この国では「働いたら負け」という概念は個人の考えを越えて万人が笑うほど「おかしいこと」であるからネタにされたのだ。


実際に働いたら負けなのかどうかは置いておくとして、少なくとも疑いようがないほど、口に出せば笑われてしまうレベルで「労働は善である」と思い込んでいる人が少なくないということだ。

僕はこの状況がとても怖いと感じる。


時代が変わったのに価値観がそのままなのはおかしいこと


10年前はそれで良かったかもしれないが、今は時代が違うのだ。労働が人を幸せにしてくれる時代はもう終わった。

国の経済が縮小している。会社はボコンボコン倒れていくし、景気の良い業界と悪い業界では待遇にも天と地の差がある。「普通に働いていればローンが組めてマイホームが買える」という時代ではない。

家も車もびっくりするほど値段が上がっているのに給料は20年前の水準と同じ。はっきり言ってヤバい。マジでヤバい。本当にヤバい。語彙力が追いつかない。


何がヤバいって、「まじめに勤めてさえいればどうにでもなる」と信じて疑わず、実際にまじめに働いてどうにかなってきた人が僕たちの親や先生世代の人たちで、その人たちから教育を受けて大人になったのが僕たちってことだ。


これからを生きる人に伝えたいこと


もしこの文章をこれからどうやって生きていこうか悩んでいる若い世代の人が見たとしたら、これだけは伝えておきたい。大人の言うことは話半分に聞いていればいい!

生きてきた時代が違いすぎる。もうまじめに勤めてもどうにもなんねーぞ。搾取されて、ストレスのはけぐちにされて、「お前らはなってない、俺たちの若い頃は…」なんて話を永遠に聞かされて、給料も待遇も全く上がらない。

でも呪いがあるから離れられない。「こんなことやって何になるんだ」って若い子はみんな思ってんだよ。なのにやめられない。それが呪いだからだ。

「労働は善だ」って呪いにかかっているから、労働しないことは悪なんだよ。小さい頃から周りの人にそう教えてもらってきたから疑うことすらできない。

「なんでそんなに頑張って働かなくちゃいけないの?」と聞くことはルール違反なんだ。そこを疑えば全てを考え直さなくてはいけない。つまりめんどくさいんだよ。大人の「めんどくさい」を君が背負って生きる必要はないんだ。君の人生は君が思うように生きるべきだ


幸せの魔法は時代が変わって呪いになった


経済全体が成長しているときの「労働は善である」という教えは幸せの魔法だったのかもしれない。

何をやらされているかわからなくても、一度入った会社をやめないでさえいれば老後も安心。福利厚生もしっかりしているし、ローンも組める。仕事は大変だけどそれ以上のうまみがあるよと。


幸せの魔法は経済の停滞という前提の崩壊によって人々を縛り付ける呪いになった。時代が変わって新しい働き方を模索する時にこの呪いは発動する。

労働せよ。労働を疑うな。労働しないことは悪である。ぞわわと心臓にまとわりつく時代錯誤の黒い呪いは、自分の手で解呪しなければどうしようもない。

または「労働は善である」に対する正当な対価を支払える業界や会社を探すか…どちらにせよ大変なことである。


時代が変われば価値観も変えていかなければいけない。僕たちを育ててくれた大人は「良かれと思って」魔法をかけた。

それは愛以外の何者でもない。「お前のために言ってる」にも嘘はないだろう。ただ、時代がどうしようもなく変わってしまった。労働が闇落ちした。労働という大船が沈んだ。


新しい時代を生き抜く力は「自分で考える力」だ

労働を信じることで得られていた対価が得られなくなった。労働は「やっときゃ間違いないよね」というスタンダードなものではなくなったし、これからもなくなり続けると思う。

幸せになるためには何が必要なのかを、個々人が自分の頭で考えなくてはいけない。


解くも使いこなすも自分次第であるが、まず第一歩目は「労働は善である」という自分にかかった呪いに気づくことであろう。


呪いに気づく簡単な方法

自分に呪いがかかっているかどうか知る方法は簡単だ。

労働をやめてみたらいい。次の就職先など探さずに、生きていける限りのんびり暮らしたらいい。

働いていないこと自体にどうしようもなくソワソワし始めたら、呪いにかかっている可能性がある。


もうすこし簡単な方法もある。労働をやめて楽しく暮らしている人を見て「働いたほうがいいんじゃない?」と助言をしたくなったら、呪いにかかっている可能性が高いと見ていい。

働くかどうかは本人が決めることで、部外者のあなたが何かを思うことはそもそも筋違いだからだ。

この文章を読んであなたはどう感じただろうか。それも呪いがかかっているかどうかを判断する一つの手段になるかもしれない。


呪いは愛だ

呪いがかかっているということを不幸に思う必要はない。愛と呪いは表裏一体だから、呪いにかかっているということはあなたを愛した人がいるということで、あなたがその愛を受け入れたということだから。

受けた呪いを解くことは愛してくれた人の手を振り解くことでは決してない。ただ最適化をかける必要があるだけだ。


最後に僕の意見と方針を表明して終わりにする。

おはなし屋なおとのスタンス

僕は「労働は善だ」とは思わない。「労働さえしていれば他のことは考える必要はない」という生き方はしない。

自分の頭で考えることをやめない。時間は命であり、必要以上に他人に売り渡すことはしない。

好きでもない他人に時間を使うくらいなら妻と娘に捧げたい。そのほうが幸せになれると思う。

人と足並みを揃えることよりも自分が幸せになることを追求したい。

大切なことは上司より娘から学ばせてもらいたい。つるまない。何が大事かは自分で決める。そうやって生きる。

労働しなければ時間はたくさんあるんだから、働かなくて困ったことが起きても慌てずじっくり考えればいいだけなんだよ。

会社を辞める時に想像した困ったことはほとんど起きなかった。別に困ってもいいんだよ。悩む時間があるっていうのは幸せなことだ。と僕は思いますね〜

いただいたサポートはミックスナッツになって僕のお腹の脂肪として蓄えられます。