自分の人生を生きるということ

今の私は、やりたいことがわからない。
やりたくないことは、たくさんあるのに・・・。

「今の私」、と書いたけれど、本当は今に始まったことではない。思い返してみると、はるか昔、思春期を終えたあたり、大人に片足突っ込んだくらいの若かりし頃には、すでにその兆候があったと思われる。

だから、だいぶ長い期間、心に薄いベールがかかったような、物事にも人にも直接触れていないような、そんな感覚で過ごしてきたように思う。

もちろん、感動や喜びは、局所的には感じてきたつもりだ。

でも、ものすごく強い刺激でないと、感動も喜びも、楽しさも、感じられなかったように思う。

だから、ある意味、教師という仕事はうってつけだったのだと思う。

他の仕事をしていたら、私だったら経験できないような、感動的な出来事に(年に数回だが)出会えるし、人のために働けたという実感を特別感じやすい職場だったから。

先生としての私は、生徒からも保護者からも信頼され、評価も高かったから、自己肯定感が異常に低い自分にとっては、自分を肯定出来る唯一の材料だったのだ。

でも常に全力疾走していないと、いけないような感覚だった。一度止まったら、二度とまた走り出せなくなるような。

そして、実際、一度足を止めてしまった私は、再び走り出そうとは、思えなくなっていた。

自分の人生、自分の子供の人生をここまで犠牲にしてまで、私がするべきことなんだろうかと考えるようになってしまったから。

仕事は辞めて、自分を見つめ直し始めたところだけど、自分自身が楽しいとか夢中になれるということが一つもないことに気づいた。仕事や育児で時間がないだけで、時間さえあればやりたいことはたくさんあると思っていたのに、実際にそれができる環境が目の前にあっても、何一つ心が動かないことがわかった。楽しいどころか、常に不安感とか焦燥感を感じてしまう。今まで仕事と育児の忙しさで誤魔化して、蓋をしてきた自分の感情。向き合おうとすると難しい。

私はいわゆるアダルトチルドレンなのだが(カウンセラーからもそう評された)、子ども時代から自分を抑制して生きてきたせいで、自分の感情というものがわからなくて、何も楽しめなくて、常に生きづらさを感じている。

そのせいで人よりもハードな仕事をして充実感を得たり、人から高く評価されることによって、承認欲求を満たしたりということを、無意識にしてしまっていた。

育児を通して、また、育休で一度仕事から離れて視野を広げてみて、私のガムシャラに頑張って幸せをつかもうとする生き方に、疑問を持たざるを得なくなった。
私のように自分を犠牲にしたり、大きな達成感や周りからの高い評価を得たりしなくても、幸せに暮らしている人たちがたくさんいることに気づいたからだ。

日本の学校教育の現場では、いまだに、辛いことを我慢すること、周りと足並みを揃えること、を強要される雰囲気がある。教師もそういうことを教えている。ずっとその環境にいると、違和感を感じなくなり、それが世間の感覚とはずれていたとしても、麻痺してしまうのだろう。私もそうだった。

でも育児・育休期間を経て、価値観が大きく変わった。

自分の娘が、我慢を強いられ、足並みをそろえることを強要されるのは嫌だと思った。そんな生き方を学んで、つまらない人生を送ってほしくないと思った。

私も、そんなことを子どもたちに教える仕事はしたくないと思った。でも、復帰してみて、自分なりのやり方をしたくても、全くさせてもらえない現実に、改めてぶち当たった。

だから、仕事から離れることにした。

自分自身の人生を生きる、楽しむということ・・・
そんな当たり前のことを、私はできるようになりたい。
それが出来て初めて、本来、私がなりたい先生という存在になれると思う。
身近にいる大人が人生楽しそうに生きていたら、子どもたちももっと未来に希望がもてるはず。
我慢や、人に合わせることなんかしなくても、人生やっていけるよ。
人生は苦しいんじゃなくて楽しいものなんだよ、と、子どもたちに堂々と言える大人になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?