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起業しようと思う

満ち足りてる今の世界に”足りない”ってあんのかな?

16年勤めてきた会社を退社して45歳になって、今感じること。
自分がやりたい事と、できる事。
私は得意な事なんてない。そもそも得意とは主観なのかそれとも客観なのか?どこからどこまでがといった線引きはあるのだろうか?
”求められる”とは”独りよがりなのか?”

毎日食べたい料理の食材は、生産者がいなくては始まらない。生産者は求められている。その食材を使った料理人は、食べたい私から求められている。
その私は・・・。

アルバイトを始めた。何もかもが新しい事だらけだ。作業の内容からその作業の意味、関わる人間の動き、1つのミッションを完遂させるのに段取りがあってついていくだけで精一杯だ。。無我夢中で作業をしながら内容に集中する。同時に経験を脳と手に刷り込んでいく。さっきまでの自分とは違う自分の動きを感じながら、時間とともに進化していく。そして突然前触れもなく訪れる休憩時間。作業と作業の合間の手休めなのだが、張り詰めた緊張が突然切れる。親方が”休憩!”と言えば、作業は嫌がおうにもストップする。
何も言われなければ、自分の納得するポイントで手を止める。自分がついさっきまで見ていた景色とは違う”そうか、俺はここにいたんだ”。

バイトの楽しみが2つある。1つは現場がいつも違う事。正直当日どこに行くかわからない。わかったとしても、それは間違いなく行った場所ではない。だから場所がわかるというのは正直どうでもいいことだ。現場について車を降りるといつもそこは別世界。町には町があり、山には山、海が見える現場もある。そこにはそこの景色があってちょっとした旅行気分が味わえる。自分ではいつもミステリーツワーって呼んでいる。”今日はどこに行くんだろう”
2つ目は昼飯である。現場から近い”食事のできるところ”に親方が勝手に連れて行く。親方は知ってか知らずか、その店に入っていくので当然そこで食事をする。その瞬間まで勿論何を食べるのか?どんな店なのか?はわからない。大抵は中華料理なのだが、おそらく自分から入らないであろう店の割合が結構高い。私は大抵”おすすめ”を聞いてから注文している。店主とのやりとりも好きだし、できれば店で”出したい”ものを食べたい。親方は自分の食べたいものだけを注文する。たまに”コレ食ってみろ”とは言うが、基本的には”後は好きにせい”である。昼休憩の時間は親方にとっては、昼からの段取りを考えたり翌日以降の仕事の予定を立てる時間のようだが、私は食事を楽しんでいる。

退職するまでは、私は”人を使う”仕事をしていた。が今は”使われる”側である。私にとっての現場は”ただの現場の1つ”であり、昼休憩は”休憩時間だから”でしかなかった。食事の時間は”腹が減った”からであり、とにかく食べたいものを適当に選び適当に流し込んでいた。食事中頭の中は、その後の仕事の事を考えていた。

退職して痛烈に感じる事がある。世の中の見方が少し変わった。
時々仕事をしていて、仕事って何だろうと感じることが多かった。
今は、言葉は変だか”生きている”ことを実感している。
退職した当初は、これから先の事ばかり考えていた。勿論現在も考えている。しかし、明日は当たり前のように訪れないことを知った。
明日は今があっての明日であり、今が全てであることは紛れもない事実である。

1日の夕日を意識することがあっただろうか?トンビが頭の上を飛んでいることがあっただろうか?空が高いと感じることがあっただろうか?
今、世界は自分を必要としているだろうか?必要とされているだろうか?

”おい!、はじめるぞ!”

親方の号令だ。

”はい!”

私は起業しようと思う。


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