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より善いものを求める意味とは

ベトナム縦断したり南米に1年間居住したりして、今はタイのお寺で修業中のひろみです。


気づけばバンコクへの一次帰宅も最終日となり、明日からまたお寺での生活が始まる。

やはりどうも僕は毎日同じことをし続けるのは苦手なようで、自堕落な一週間だった。
だが、それでも瞑想とnoteは継続できているし、だらしないなりに自身の成長が見られた一週間でもあった。

お寺に戻ったらまた人間らしい生活ができることに期待だ。

バンコクではよく寝てよく食べて、小学生であれば10cmは身長が伸びたであろう日々だったが、同時に一度お寺から離れたということもあり、お寺での学びを振り返っていた。

その中で最近考えていることがあり、それについて書いていきたい。


より善いものを求める意味とは

何度も書くようだが、タイ仏教のゴールは輪廻転生からの解脱をすること。

そのためにはあらゆる煩悩(欲)に支配されずに、自分を俯瞰して見れるようになる必要がある。
だから僧侶は最低限のものしか持たない質素な生活を送っている。

新人僧侶のタム君もよく、「何事にも執着しないことが最も大事だ」としつこいくらいに伝えてくる。

何にも執着しないとは、今身の周りにあるもので満足するということなのだが、これは明らかに現代社会に反している。

「さらに良い生活を」「さらにおいしい食べ物を」「さらに美しい女性を」と、常により善いものを探している。


僕はお寺に行く前はどちらかというと仏教寄りの思想だったが、同時に現代社会の考え方も理解できるという立場だった。

僕は何かをめちゃくちゃ欲しい!と思うことがあまりない。
靴は基本穴が開くまで履くし、服もさすがにこれはやばいでしょと周りから言われない限りは同じ服を着続ける。

ただただ、だらしないだけかもしれないけど
自分の主張としてはまだ機能は果たしているから大丈夫でしょ、ということだ。


だが、お寺に行った後いろいろ考えた結果、より善いものを求める気持ちがだんだんわからなくなってきた。

例えば、「普通の食事」と「めちゃくちゃおいしい食事」があったとして、お腹いっぱいになるという点ではどちらも同じだ。

後者の方がその過程を楽しめるかもしれないが、その楽しみは一時できなもので次の日にはまたそれを欲してしまう。

だったら普通の食事を食べても同じではないか?というひねくれた考え方をしている。

むしろめちゃくちゃおいしいご飯の方が”おいしい”とされているわけなので、それを欲する気持ちはより強くなるはずだ。

そうなると、どんどん執着心が湧く→食べる→執着心→食べる、のサイクルになる。

これはその他の物質的な欲望にも共通することだと思う。


だが、上記の内容に反して、目に見えないものを目に見えないもので満たそうとする欲求はこれには当てはまらないように思える(たぶん)。

例えば知への欲求とか。

なんで?と聞かれても明確な答えは持ち合わせていないが、シンプルに僕の主観的視点から、そういう欲求を持っている人の人生は輝いて見える。

例えばギリシア時代の哲学者とか。

彼らは人生を真実を求めることに捧げていた。
別にそれを知ったからと言って何か利益があるわけではないのに、ソクラテスなんか「哲学者にとって死ぬことは幸福である。なぜなら肉体の制約(性欲や食欲などを含む)を逃れ、魂だけで哲学を追求できるから」的なことを言っていたらしい。

これも一種の解脱と捉えられる。


何を言いたいのかわからなくなってきたが、要するに僕の歩みたい人生は物質的な欲望にとらわれたものではないということだ。

仏教は知の欲求とかもよろしくないとするっぽいので、僕の生き方とは相いれないが、仏教のおかげで今日も面白い学びがあった。

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