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長すぎる寄り道②(奈良駅〜京都駅)

僕は今、電車の中でこの文章を書いている。今朝、難波で目を覚まし、18時には梅田にいる必要がある。それまで、僕は1日何をしようかと思いながら、とりあえず電車に乗った。ただまっすぐ梅田へ出ても面白くないので、気の向くままに電車を乗り継ぎ、気になる土地に立ち寄りながら、長すぎる寄り道をしてみようと思い立ったのである。



奈良駅の電光掲示板を見上げ、次はどこに行こうかと思案する。選択肢は大阪へ踵を返すか、天理の方へ足を伸ばすか、聞いたこともない地域を訪れてみるか、京都へ戻るか。数分悩んだ挙句、いったん京都へ戻ることにした。というのも、京都ー大阪間の電車は嫌というほど利用しているが、京都ー奈良間の電車には乗ったことがない。知らない景色を見るべく、僕は本拠地である京都へ戻ることに決めたのだ。


知らない景色とは言っても、周囲は相も変わらず山ばかりで、どこにでもありそうな田舎の風景。しかも、そろそろお尻が痛くなってくる頃だ。電車の座席に大きな根を張って動けなくなるのではないかと不安になるほどお尻が痛くなってきた。しかも、電車は山の中を走っているので、小刻みに揺れる。それだから、原稿用紙に書き付けている文字も揺れる。それでも僕は、走り続ける電車の中で、「お尻が痛い」などとペンを走らせるのだ。


京都と奈良の位置関係は妙につかみにくい。京都から奈良まで、電車1本で移動できることは知っているのだけれど、どうも奈良は遠くにあるというイメージがこびりついて離れない。でも京都と奈良は隣接している部分もあるし、古くから古都として栄えていたという共通点もある。そしてこれは余談だが、なぜ大阪は京都・奈良両府県に接していながら、雅な文化に全く影響を受けることなく、独自の強固な文化を作り上げてきたのだろうかと不思議に思う。


奈良線は綺麗なグラデーションだ。どこまでが奈良県で、どこからが京都府なのか、全くわからない。高速道路のように、「おいでやす、京都へ」などの立て看板があるといいのだけれど、そんなものが都合よく立っているとは限らない。ジワジワと絵が変化してゆく間違い探しのように、あるいは「まだ酔っていない」なんて言いながら飲み続け、とある一瞬で吐き気を催す飲みサーの大学生のように、知らぬ間にジワジワと京都が押し寄せ、宇治という地名を聞いた時にはもう手遅れだ。自分はとっくに京都府へ突入しているのだと知る。


宇治といえば、僕は自宅のある京都市北区から宇治まで自転車を漕いだことを思い出した。大学1年生の秋のことだった。もう単位は取れぬと諦めた授業の試験日の朝、思い立って自転車で遠出をしてみようと思った。とはいえ、宇治に行っても平等院に入ることもせず、抹茶の何かを食うこともせず、なぜ真夏の暑い中、宇治まで自転車を漕いだのかよくわからぬまま帰った。そのおかげで、その授業の成績は棄権であった。もし当たり前のようにテストを受けていれば、今卒業間近の僕にのしかかっている単位は14単位ではなく、12単位だったかも知れぬというのに。


そんなことを考えていると、大集団が乗ってきて、車内の人口密度が急上昇した。伏見稲荷である。伏見稲荷の参拝や写真撮影を終えた人々が、互いを押し潰しそうな勢いで雪崩れ込み、数分前までは車内に漂っていた平穏と安寧は跡形もなく打ち砕かれた。満員になれど、電車は決まった線路の上を決まった速度で走り、決まった駅に停車して乗客をひと息で吐き出す。難波から梅田まで向かう途中の寄り道は、奈良を経て京都へやってきた。次はどこへ行ってみようか。これから大阪へ戻っても中途半端に暇になるだけだ。特急の選択肢はないから、京都の北の方ーー亀岡や福知山ーーへ行ってみようか、それとも滋賀だったけれど悪くない……と路線案内の前で唸りながら、けっきょく僕は3番のりば、米原方面近江塩津行きの新快速電車に乗った。これから波乱万丈・琵琶湖1周の旅が始まるのである。

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