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あらゆる看板〜尾道の商店街はおのみち芙美子通りというらしい〜

看板の豊かさとは一体なにであるのか。町の豊さなのだろうか。町にいる人、町にある店、町の歴史の集積が看板の豊かさを作り上げるのだろうか。半分あっていて、半分違っている。全国のどの都市にでもありそうな、面白みのかけらもない看板がひしめく街(東京とか……)は、看板の豊かさには乏しいけれど、街としてはどちらかというと豊かである。一方で、古い商店街を彩る看板は、個性に満ちていて、非常に豊かなのだけれど、豊かである商店街、が多いというわけでもない。一体なにが看板の豊かさを作るのだろうか。

尾道の商店街
尾道商店街の看板たち

尾道の商店街を歩いた。ひとりで歩いた。商店街の中の、とある喫茶店に行きたくて歩いた。あるいは、尾道の商店街を歩くために、とある喫茶店に行きたくて、だから歩いたのかもしれない。尾道は観光地だから、訪れる人はたくさんいて、古いお店も新しいお店も、古いけれど新しいお店(潰れてしまった銭湯を改装したと思われるカフェなど)も乱立してるから、尾道はあらゆる意味で豊かな町だ。

カバン・コムロ

尾道の看板は豊かである。まずは「カバン・コムロ」。『コロコロ・コミック』のような色とフォントでよく目立つ。尾道の商店街を歩いて、カバン・コムロの看板に目をやらない人は、おそらくいないと思う。それほどにカバン・コムロの看板の主張は激しく、そのせいでお隣の果物屋さんの看板が全く目立たない。果物屋さんの看板はせっかく目にやさしい色をしているのに、通行人の注目が全てカバン・コムロ看板に吸収されてしまうなんて、果物屋さんは気の毒だ。


かめだの「看箱」

看板とは、宣伝のために屋号、扱う商品、うたい文句などを書いて、人目につくところに掲げておく板状のものである。というのはgoo辞書で調べた結果である。簡単に言うなれば、看板とは、「宣伝のための板」である。そして、板とは「薄くて平たいもの」である。立体ではなく平面、三次元ではなく二次元というイメージが板についての一般的なイメージだ(例外はある)。
つまり、看板というのは、宣伝のための薄くて平たいものであるのだけれど、直方体の看板を掲げる「かめだ」は斬新だ。まず、看板が持つ存在感が並みのものではない。おそらく、店の前に5人のキャッチのお兄さんが立っているよりも効果的であるように思う。そして、面の数が板状の看板よりも多いため、かめだ看板の場合は3方向にいる人間に対してアプローチをする事ができるから、かめだの看板はスーパー看板である。というよりも、「スーパー看箱」なのだ。


将来ベニヤ国を作るなら、国旗はこの色の組み合わせにしようと思っている。

ベニヤ化粧品店の看板。彼には、「よくぞ生き残った」と言ってあげたい。南米の国の国旗にでもしれっと使われていそうな色をした彼は、きっと同じように国旗みたいな色をした友達がいたであろう。そんな友達も時間の経過と一緒に徐々に減ってゆき、今では彼1人になってしまった。というのは僕の勝手な妄想だけれど、商店街にひとつの色のアクセントを加えるために、文字の先っぽをさけるチーズを裂く感覚で数センチほど裂かれながらも、今もまだこうしてベニヤ化粧品店の名前を通りかかる人々に知らしめている。

看板の豊かさとは一体なにであるのか。町の活気も、お店の元気も、訪れる人の数ももちろん大切だけれど、それれが看板を豊かさにするのかというと、必ずしもそうではない。それが都会でも、田舎の商店街でも、あのフォントがいいとか、この形がいいとか、色がいいとか、そうやって看板を愉しむ人がいてこそ、看板は豊かになるのかもしれないし、もしかしたらそれほどでもないのかもしれない。

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