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【地団駄を踏む】

【(過去の集積としての純粋な)歴史とどう向き合うか】

(負債)


そもそも、人と人とが関わり合うとはつまり、互いに負債を負わせ合うということだ。
おれがKにLINEメッセージを送ると、Kは「返事をしなくっちゃ」って義務感を抱くだろうし(つまりぼくはKにある責任を課している)、逆にぼくはKに対して幾らか「面倒な文章を送りつけてごめんちゃい」っていう負い目を感じる(さらに冗談っぽい比喩を言えば、ババ抜きでジョーカー渡しちゃったみたいな)。
同様に、新しく生まれ、大人へと育つことは、親やさらに先人たちに我々という大きな負債を追ってもらうことだ。だからこそ、親孝行という概念があるし、先人の知恵に学ぶべきという模範的姿勢がある。
この先人の知恵という言葉はさらに敷衍すれば、先人たちが積み上げた学問知識、さまざまな領野でのノウハウ、そしてもっと抽象度を上げると、あらゆる概念(「愛」や「憎しみ」、世界平和とか平等や自由という「夢」や「理想」ももちろん、「利便性」とか「効率性」、「役立つこと/もの」とか「利益」、あらゆる全て)、そしてひいては言語そのものもまた先人の知恵だ。

(先人の知恵は基本的には正しいが、必ずしも真理であるわけではない)


ぼくらは思考のなにもかもを先人に、他者に追うている。
でも、だからといって、考えてはいけないこと、思ってはならないことは本質的にはないし(むろん、道徳的や倫理的にはある)、この理屈をさらに行為に当てはめると、やっちゃいけないことも本来的にはないと言える(法律や効率といった概念においてはあるけれど)。


(思考/言葉⇄論理)


これはぼくには、以前話した、モンティ・ホール問題から導き出せる哲学に帰着するように思う。少し歴史とは遠く離れるように思えるかも知れないけれど、言葉と思考は人間社会の重大な基盤となっているからこそ、結局のところ強い関連がある。

まず思考/言葉(⇄論理)は、言葉は『世界'』を作り上げる。これを基本的に私たちは「世界」とか「社会」と呼ぶが、その「世界」や「社会」が人それぞれ少しずつ異なるように(「あいつは社会を知らない」の「社会」は結局のところ、「私の思う社会」であり、みんなそれぞれ世の中を知らない。自分が社会と思う社会をわれわれは「社会」と呼ぶ)、全てが「世界’」のヴァリエーションだ。しかしだからこそ、われわれは『砂漠としての、本物の原世界』で、絶望することなしに(なぜなら「原世界」には論理も言葉もなく、論理も言葉も外れているので、私たちの行動のなにもかもがいかなる価値をも持ち得ないし、いかなる思考もおよび得ない。意味も理由もない人生に、人は耐えられるのかと問えば、基本的に耐えられないと答えざるをえない)、ある程度平和に幸福に生きて行ける——言葉なくしては意思疎通はかなり困難だろうし、論理的思考なくしては概念の伝達はかなり非効率的となる(つまり、「論理的に考えよう!」とか「ロジカルシンキングが大事だ」という文言は、結局のところ、「みんなにわかるように」とか「わたしに分かるように」とか「過去行われてきた通りに」とか、そういう『共有可能性を失わないようにしようね』って意味なのだ——だから「論理的な」という概念は誤謬の一種でしかない、真理とは異なる)。
そして思考/言葉(⇄論理)は社会や文化の発展の基礎ともなっている(ex. 学問/科学的人文知の成立と発展:テクノロジー→効率性の高い便利な暮らし、人権規範→民主主義社会、大規模経済制度→資本主義的成長)。
このように、思考/言葉(⇄論理)は世界を我々の生存可能な場所へと作り変える/造り変える/創り変えるために欠かせない単位であり体系であり、アナロジーとしてはまんまだが、PCにおけるコンピュータ言語なのだ。
そして、この『思考/言葉(⇄論理)』をどう用いるかには二つの姿勢があると思う。

① 生存をより豊かにする——幸福の実現:社会の発展/経済成長/応用科学
② 原世界をドーナツ的把握で捉える——真理の探究:哲学/純粋科学


(歴史への姿勢;論理との向き合いから)


この姿勢を歴史に当てはめよう(当てはめてよいはずだ、なぜなら『思考/言葉(⇄論理)』の積み重ねとは、過去の積み重ねであり、それはつまり歴史であり、この堆積層の上で(つまり先人の知恵に支えられ)我々は生きているのだから)。

① 生存をより豊かにする⇒過去の経験から成功を得る/過去の果実・成果を享受する
② 原世界をドーナツ的把握で捉える⇒未知へ戦いを挑む/新たな創造を求める/苦闘する


(歴史への姿勢;負債観念を和えて)


そして人間(人と人の間に生きるものとしての)として生きるとは、終わりのない「負債」を抱え/負わせ合うということだと考えると、以下のようになる。

① 生存をより豊かにするために、過去の過ち(戦争・虐殺・事故)や、過去の経験より定められた規範(倫理・道徳・法律・常識)に従う。
② 原世界をドーナツ的把握で捉えるために、「過去の過ち」と「過去に由来し定められた規範」を十分に理解した上で(ドーナツの輪郭部把握)、だか完全には過去の規範には従わず、時には大いに逆らい、新たな創造を目指す。(※)


(結びっぽいもの)


さて、というわけで君はどちらを選ぶのだろう? どちらにしても、正解も間違いもない。ぼくは②が好きだ。だから②を望む。ゆえに、「死ぬまで一人っきりで砂漠を歩み続けたい」と言うのだ。でも、①だっていいと思う。ぼくがあんまし好きじゃないだけだ。卑近な比喩を取れば、ミスチルが好きか、佐野元春が好きか、みたいな話だ。別にYOASOBIだっていい、ヒゲダンでもね。でもぼくが大事だと思うのは、別の選択肢があるって知っておくことだ。モンティ・ホール問題のとおり、正しい知識は人を求めるものへと近づく可能性を高めてくれる。もちろん少しだけだけれど、けれどこの小さな努力をせずには、我々は目標に——それが本当に存在するのか、そこにたどり着く可能性が本当にあるのかは考慮しない、これは神と同様、信じるか信じないかの問題だ——、目指す場所へとたどり着くことなど出来ないのだから。

※①と②、選択肢は二つなのは変わらないが、補足として、「常に片方に寄っている必要はなく、またと片方のみを立場としなくてもよいのだ」と添えておこう。時には①に傾き、また時には②に傾き、これは自分の状況/状態や気分に応じる。しかし、軸として自己規範として目標として、いずれかを志向するよう選ぶ必要はあるように感じる。


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